《特集》福島第一原発 高線量地域スタディツアー

社会・国際

高線量地域は今 スタディツアーで現地へ

発災後9年を迎えようとする東日本大震災による放射能汚染。その被害が今も続く姿を発信し続けるキリスト者を現地からレポートする。

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今も残る汚染に向き合うクリスチャン

 2011年の東日本大震災から九年。被災地では、まだ一部に仮設住宅が残るものの、復興住宅や巨大な堤防が新設されるなど、人の住む町の姿が整いつつあるように見える。しかし、依然として一部地域に残る不安が、放射能汚染だ。

 その問題を今も追い続ける活動が、地元の牧師たちによって進められている。
東北地方の伝道を祈り求め、教団の垣根を超えて活動する「福島県キリスト教連絡会」。その働きの一つに放射能汚染の実態を記録し、発信する「放射能対策室」がある。「被災地(高汚染地域)スタディーツアー」はその一環として2019年から試行的に始まった。放射能汚染に関心があっても、どこに行ったらいいかわからないもの。これまでの経緯を熟知している地元の方にガイドしてもらえる同ツアーは心強い。そこで、昨年秋に行われた1泊2日のツアーに参加してみた。
 同ツアーの企画書にある参加対象者の項目には、「放射線の追加被爆の観点から、50歳以上の方が望ましい。未成年者や妊婦の方は不可」とある。ここを読んだだけでも、福島の放射能被害が現在進行形なのだとわかる。

 車に乗って巡るツアーは、朝から夕方まで、まる一日の行程のため、各地を巡る前日に福島に入り、須賀川市にあるキリスト教キャンプ場「シオンの丘」(日本イエス・キリスト教団東北宣教センター)に宿泊する。ここは、発災後に支援拠点にもなった場所だ。
 その集会室で、1日めの午後にレクチャーが行われた。福島の放射能汚染の概要のほか、翌日の行程の説明が行われる。放射線量を高い精度で測れる測定器を持参していくことが伝えられ、今回のツアーの特殊性がヒシヒシと伝わってくる。

 放射能問題を追い続けるチームのメンバーの1人、岸田誠一郎さんは、福島市内にある福島聖書教会の牧師だ。約6年前に福島にやってきた。「発災の時は大阪の教会で牧師をしていましたが、被災地の現実を知らされ、福島で働く先生方のお役に立てることがあれば」という思いで、2014年に福島にやってきた。

 移住して、すぐ計測を始めた。すると、ホットスポット(高線量地)が、まだらにあることを実感した。それを、地元の人も含めてほとんどの人が詳しくは知らないのだという。
 「最初は水1杯飲むことも、戸惑いながら、確認しながらでなければできなかった。ホットスポットに気をつけ、そうでないところは大丈夫だと判断していった。今は神様の導きを信じて違和感なく住んでいますが、ここで生きる以上、放射能を無視することはできない。だから地元の人も含め、多くの方に知ってほしい。ここで折り合いをつけて生きていくために。そのために学習会を開き、考える材料を提供し、意識向上に資したい」
 岸田さんはそんな思いから、これまで、福島県内外のクリスチャンを中心に50人近い人々と、ホットスポットファインダー(高性能放射能測定器)で放射線量を計測しながら、原子力被災地を巡った。
 同じ放射能対策室のメンバーの木田惠嗣さん(郡山キリスト福音教会牧師)は「立場の違う人たちが、祈りを共にしながら、この現実に触れることで、新しい理解を生む機会となりました」と振り返る。
 対策室では、食品放射能計測も行っており、郡山キリスト福音教会に設置した計測器で、持ち込まれた食品の計測を行っている。ほとんどの作物は基準値以下だが、自生する山菜やキノコ類は総じて高い値を示す。安全だと言われるエリアでも、思いがけず食品の放射線基準値100ベクレル/キログラムを超えるタケノコが発見されたこともあったという。

「シオンの丘」からのツアー出発を前に祈りをささげる

ツアーへ出発

 2日めの朝、八時半にシオンの丘を車で出発。最初に、郡山市の東に位置する「コミュタン福島」(三春町)を見学。地震発災から原子力発電所の事故までの経緯を説明する展示などが見られる。原子力発電所の建屋が爆発した直後の模型は、リアルに再現され、恐ろしくもある。
 1日で回るにはタイトなスケジュールのため、要所の展示のみを見て、再び車中へ。
移動途中の山道から、わずかながら原発の建物が見えた。海岸近くに建てられた発電所は、周囲の山に阻まれ、実は立ち入り可能な場所から見えるところは少ない。

事故を起こした福島第一原子力発電所。周囲が山に囲まれているため、建屋が見える場所は少ない。こうしたポイントを知っているのも、地元牧師主催のツアーならでは

 次に向かったのは「東京電力廃炉資料館」。その名にそぐわぬメルヘンチックな建物だ。それは、もともと「エネルギー館」として建てられ、きっと“原子力で築く明るい未来”を伝えていたのかもしれない。ここでは、原発事故の経緯を映像とナレーションでたどる短いビデオが見られる。その最後で、「私たちが思いこんでいた安全とは、私たち東京電力の傲りと過信にすぎなかった」と認め、深く反省している旨のコメントがあった。とても謙虚で踏み込んだ発言に驚いたのだが、原発事故の責任を問う裁判などで東京電力が主張する内容と大きな隔たりがあり、ビデオの発言が空しく響いた。

 原子力発電所のある大熊町と双葉町を走る国道6号線周辺は、今も帰還困難区域に指定されている。沿道には、廃墟となったコンビニや自動車ディーラー、民家が続く。大きなガラス窓は割れ、看板を撤去する作業も行われず、うち捨てられている。その中に十字架の立つ建物があった。元結婚式場とのことで、今は建築会社の事務所に転用されていた。
 この原発の町には、汚染土などを一時的に保管する中間貯蔵施設の建設や、海岸部の堤防などの工事があちこちで行われ、国道はダンプカーや大型車ばかりだ。ツアー車が、ある切通しを通った時に、1時間あたり1・45マイクロシーベルトという高い値が出た(走行中の車内)。年間の追加被爆線量の限度が1ミリシーベルトと定められているのだが、それは1時間あたり0.11マイクロシーベルトに相当する。その10倍以上にもなる地が、交通量の多い国道の車内で観測されるのである。もちろん車外に出れば、その値はさらに上昇することになる。

高性能の放射線計測器ホットスポットファインダー。GPSと地図を連動させて線量を記録できる

人の罪と放射能

 国道114号線は、原発のある町に隣接する浪江町から北西に延びる。その沿線はホットスポットエリアでもある。そのためここは今も帰還困難区域であり、道端には、「帰還困難区域につき長時間の停車はご遠慮ください」と警告する看板が随所に立っている。車内の測定器の値も、進むにつれて1マイクロシーベルト近辺を指し続けた。テレビ番組でタレントのTOKIOが耕作していたDASH村があった浪江町津島地区はこの国道の近くだ。
 ツアー中、田園のあちこちで除染土を詰めた黒い大きな袋(フレコンバック)が見られた。農地や空き地に仮置きし、いずれ完成する事故原発近くの中間貯蔵施設に集められる。その施設は、あくまで一時的なもので、最終処分地は福島県外に造ると政府は約束している。果たして、受け入れる県はあるのだろうか。
 国道114号線の帰還困難区域の境界線あたりに、自動販売機が並ぶ場所があった。かつては人を潤す小さなオアシスだったはずだが、近づいてみれば2011年3月当時の姿のまま朽ちていた。

国道114号線の帰還困難区域にあった自販機

 ツアーが間もなく終わろうとする夕方の車窓には、山々が紅葉で色づき、刈り取りを終わった田んぼでは稲が天日に干され、美しい田園風景が続いていた。それを見ながら、放射性物質と、聖書に記された「人の罪」は似ているという思いが浮かんだ。いずれも、目には見えないけれど人を、そして被造物全体を蝕むのである。
 岸田さんは、「現状を見て、現地を体験してほしい」と言う。それは、放射能被害だけでなく、それを生んだ人の罪の恐ろしさを見てほしいと言っているようにも聞こえた。
まき散らされた放射性物質が無害化されるまでに、核種によっては何万年もかかる。そうなるまで、真の復興はありえないのである。

【「百万人の福音」2020年2月号より】

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