困難が予想できても 従い続ける歩みを
玉川聖学院学院長 安藤理恵子さん
プロフィール:宮城県第一女子高等学校で女子教育の自由さを経験。東京大学文学部卒業。アバディン大学神学修士。KGK(キリスト者学生会)で大学生へのキリスト教教育に尽力した後、2013年から現職。ミッションスクールにおける女子教育に奮闘中。日本神の教会連盟練馬神の教会牧師。
Q1. あなたにとって「みこころ」とは何ですか?
A. 自分のこだわりや勘違い、不信仰を、聖書のことばと御霊の導きによって諭されながら教えられる、神のご意思。私たちが神のわざに参画するためには、神のみこころに従う者にならなければいけないと思っています。
Q2. これまで、「みこころ」かどうか、どのように判断してきましたか?
A. 聖書のことばを基準にしてきました。具体的にどう判断したらよいかわからないときには、祈りながら状況を観察しつつ、自分の心に悔い改めるべきことや後ろめたいところがないかどうかを吟味しつつ、そのときそのときに選んできました。
自分の気持ちや、人の意見や状況判断だけで結論を出さないように、いつも気をつけています。特に、自分の高慢や失敗、弱さを認めたくない気持ちがあると、神のみこころがわからない(というかわかりたくない)、従えない状態になっていると思います。小さな罪であってもすなおに悔い改め続けることが、みこころを生きるためにいちばん大切だと思っています。
Q3. 「みこころ」と判断して踏み出したにもかかわらず、困難なことはありませんでしたか?
A. 主に促されたと思ったことを実行して、かえってこじれてしまったとか、残念なことになってしまったことはあります。しかし時間がたつにつれて、自分が主に従ったつもりでやったことで、事態としては困難を招いたものの、その時は気がつかなかったもっと恐ろしい罠から守られていたことに気づいたこともありました。
ですから今は、みこころに従っていくとき、苦しみを受け取らなければならない場合があるということに納得しています。そして、苦しみに出合うことよりも、罪の中を歩む方がはるかに不幸であることにも納得しているので、今後とも、主が望んでおられる正しい道があれば、困難が予想できても従い続ける者でありたいと願っています。
Q4. 日常生活で、どのようなときに「みこころ」を求めますか?
A. 毎朝、今日出会う人たちや事件に対して主のみこころにかなった態度が取れるように、と祈っています。毎日いろんな事件が身の回りに起こる中で、一つ一つのことにどのように対応したらよいのか、心の中で祈りながら仕事をしています。もちろん、選択に迷うときにもみこころがわかり、従えるように祈り求めます。
Q5. 「みこころ」を求めている人にアドバイスがあれば、お願いします。
A. 個別の事柄についてのみ、神のみこころを求めても、よくわからなかったり、わかったとしても従わなかったりするのが私たちだと思います。みこころを知りたいという願いをもった方には、まず人生全体を主にささげることを自分に問い、決断することこそが、みこころにかなったことであると知ってほしいと思います。
聖書の約束は真実で、私たちがみこころにかなう心で、主ご自身も願っておられる願いを自分の願いとした時に、確かに祈りはすべて聞かれるようになっていきます。おみくじのようなみこころ探しではなく、生ける神とひとつになって生きるときに、何を選んでも祝福が始まるという恵みを、ぜひ体験し始めてください。
<百万人の福音2017年6月号より>