政治と信仰 ー 手遅れにならないうちに
上中 栄 牧師
プロフィールかみなか さかえ/日本ホーリネス教団上池キリスト教会/元住吉キリスト教会牧師。日本福音同盟社会委員会委員長。共著に『日本宣教と天皇制』、『日本の「朝鮮」支配とキリスト教会』(いのちのことば社)他がある。
為政者の権力と信仰姿勢
「権力者」と「信仰者」の関係といった場合、聖書でまず思い起こされるのは、イエス・キリストの十字架の場面ではないでしょうか。
宗教的な権力者であった祭司長たちは、強引に主イエスは死罪にあたると断定しました。しかし、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、死刑を執行できないため、ローマ帝国の総督ピラトに訴え出ます。ピラトは、主イエスに死刑になる罪を見いだせませんでしたが、政治的な判断で権力を行使し、死刑を容認しました。
それに対して主イエスは、エルサレムにご自分の命を狙っている者たちがいることを承知のうえで、エルサレムへ向かわれました。また、捕えられる場面では、剣で抵抗する弟子をいさめ、《剣を取るものはみな剣で滅びます》と言われました。そして天の軍勢のような、この世の力に勝る権威がご自分にはあるとしながらも、それを行使せずに十字架への道を歩まれました。
また、使徒パウロは、当時の有力な権利であったローマの市民権を持っていました。そのため、不法な刑罰に抗議するなどしました。しかし、やはり捕えられることがわかっていてもエルサレムに戻り、捕えられるとローマ帝国の裁判を要望しました。
ほかの使徒たちも、当時の権力者に実力で抗うようなことはしませんでした。
信仰には、為政者が振るう権力に勝る力があります。今日、その信仰によってどう生きるのかについては、いろいろな考え方があります。
旧約聖書の預言者たちが、時の権力者に神のことばを明確に伝えたように、キリスト教精神に基づいて、社会正義のために行動すべきだという考えがあります。その一方で、主イエスやパウロの姿勢に倣い、政治や世の中の動きがどうであれ、そうしたこととはあまり関わらずに、ひたすら信仰に生きるべきだという考えもあります。
いずれの場合も、状況に左右されない、自由で主体的な生き方が大切だと言えるでしょう。けれども、それがもし誰かの思惑通りであるとすれば、どうでしょうか。
権力行使のシステム
日本では、古くは天皇や貴族からなる朝廷が、政治の実権を握っていました。武士が権力をもつ時代(鎌倉時代以降)になっても朝廷は存続し、権力者(為政者)は朝廷の影響力などを利用してきました。
幕末に実権が朝廷に戻される(大政奉還)と、明治政府は天皇に宗教的な要素を加え(明治憲法)、その威光を掲げて権力を行使しました。今日、天皇は象徴とされ、政治的実権はありませんが、為政者はその威光を掲げつつ権力行使をしているという構造は同じです。
このシステムの場合、国民が為政者の政策に不満をもったとしても、天皇に対して不満をもつことはありません。為政者が政策をうまいこと天皇に関連づけられれば、国民の不満の矛先をそらすことができます。それだけでなく、為政者の言うことに問題を感じなくなるという効果もあります。戦前は、このシステムを利用して戦争が正当化されたばかりでなく、さまざまな人権侵害が合法的に行われたのでした。
このシステムは、キリスト教界にも効果を発揮します。戦時中の教会指導者たちの多くは、天皇の意向に沿うことが、神のみこころに沿うことだと信じました。そして、戦争協力や神社参拝を行ったのです。ここで見過ごしにできない点は、当時の信仰者たちは、これを天皇や為政者に強いられたのではなく、自分たちの主体的な信仰の生き方だと考えていたことです。
1952年、上皇明仁の立太子の礼
天皇制の精神作用
今日の日本社会にも、このシステムは生きています。たとえば八月十五日。ポツダム宣言受諾や降伏文書調印の日ではなく、天皇の玉音放送のイメージと結びついたこの日は、呼び方も敗戦ではなく「終戦記念日」と呼ばれるのが一般的です。
さらには元号。現在の日本の元号は、皇位の継承と結びついています。元号の使用は強制されないことにはなっていますが、役所の書類の大部分は、元号の使用を求められます。
また、国民の祝日には、皇室の宗教行事である宮中祭祀をルーツとするものが多くあります。祝日を「祭日」と呼ぶことがあるのは、その名残です。それらの日は、ハッピーマンデーになりません。日をずらすと、本来の意味が失われるからだと言われます。
これらは、信仰者の生活に支障があるわけではありません。また、現在は象徴天皇制ですから、その影響も限定的とも言われます。ただ、多くの人が気づかないうちに、つまり、あまり考えないうちに、浸透していることがあるというのは、覚えていていいと思います。
天皇の戦没者慰霊の旅や、被災地の訪問、それ自体が悪いとは思いません。しかし、それが国民の間にどのような心情的な効果をもたらすかを考えると、それを利用したいと思う人がいても、おかしくないでしょう。天皇に政治的実権がないのは都合がいいとも言えます。
もう一つ例を挙げると、皇族の社会福祉への取り組みはよく知られていますが、その一つにハンセン病者への援助があります。そうしたいわゆる「皇恩」に報いるように、ハンセン病者への支援は行われてきました。それと平行して、医学的根拠のない隔離政策や、強制的な不妊手術を「合法的」に行うといった人権侵害が、戦後も長く続きました。
詳しく書く余裕がないのですが、多くの支援者は高い志をもっていましたが、同時にハンセン病者に対する差別意識ももっていたことがわかっています。それも問題ですが、日本社会もこの問題について考えることをせず、長い間放置してきました。キリスト教界もまた、聖書の皮膚病の翻訳と解釈によって、何の悪意や気づきもないまま、ハンセン病に対する偏見の助長に加担してきたのでした。
つまり私たちは、物事を深く考えず、問題に気づきにくい風潮の中に生きていると言えるでしょう。
何が起きているのかを知る
日本が民主主義を標榜する法治国家である以上、為政者が面と向かって信仰者に介入することはありません。しかし、気づかないところで何が起きているかは、知る必要があるのではないでしょうか。
憲法の改正論議が話題になっていますが、政治や世の中の状況にかかわらず、信仰に生きるという信仰者の姿勢は、改憲を進めたい人には都合がいいものです。思いきり天皇を持ち上げる一方で、個人の人権を軽視する方向に進んだとしても、その対象となる信仰者が黙認してくれるからです。第九条に関心が集まりやすい改憲論議ですが、キリスト教の価値観や信教の自由・政教分離原則といった、私たちが自由で主体的な信仰に生きるための前提に、何が起きようとしているか、信仰者は気づいているでしょうか。
権力者と信仰者の関係について、いろいろな意見があるのはいいことです。主イエスに倣い、自由に主体的に生きることも大切です。ただ、それが真実なものであるかどうか、手遅れにならないうちに、自問する必要があると思わされるのですが、いかがでしょうか。
聖書には、《目をさましていなさい》という勧めが思いのほか多く記されています。その理由も、終末への備え、祈りのため、強い信仰に生きるため等々、多様です。それだけに私たちも、視野を広くし、物事の本質を見抜くことができる感性を磨きたいと願っています。
【「百万人の福音」2018年5月号より】