《特集》岩手キリスト教の旅③ ケセン語訳聖書をめぐる人智を超えた神の働き

信仰生活

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温もり感じる方言聖書に

大震災がもたらした苦難と奇跡

「ケセン語訳聖書」をご存じだろうか。気仙地方(岩手県の大船渡市と陸前高田市、宮城県の気仙沼市など)の方言のことで、標準語しか知らない人が聞くと半分くらいしかわからないのだが、囲炉裏端で民話を聞くような温もりを感じる。「天の神様」が「天のおどっつぁま」となり、ことばが頭でなく心にスッと入ってくる。2002年に、大船渡市に住むカトリック信者の山浦玄嗣氏が出版した。

この企画が世に出るために不可欠の役割を果たしたのが、出版元の「イー・ピックス」だった。社長の熊谷雅也さんは、著者の山浦氏が住む大船渡で長らく印刷業を営んでおり、山浦さんと同じ教会に通うクリスチャンだった。

21世紀を前にして、熊谷さんは印刷専業に限界を感じ、出版やウェブ分野への進出を決めた。同じ教会の山浦さんに決意を話すと、「実は本にしたい原稿がある」という返事がきた。制作がスタートすることになり、新約聖書の4つの福音書を4巻で出すことにした。山浦さんの音読CDもついた豪華版で、1冊約6,000円だった。

「今ではとてもできませんが、出版の世界を知らなかったんですね。そんな高い本を、一巻あたり3,000冊、合計12,000冊も作ってしまった」と熊谷さんは話す。

しかし、出版後NHKの番組で取り上げられたり、バチカンに招かれて法王に直接献本するなど話題に。全国各地へ著者と一緒に講演に回り、地道に販売を続けた。

シリーズ最後の四巻めが出てから七年後、東日本大震災が起きた。

大船渡の町は、地震から30数分で巨大津波にのまれた。社員は無事だったが、会社と機械設備は流失し、鉄筋造りの倉庫にあった約20,000冊の書籍のほとんどは泥まみれになった。

「あの時、ケセン語訳聖書はまだ3,000冊残っていました。水をかぶればもう売れず、大きな赤字となるはずでした。ところが、70%には大した被害がありませんでした。ダンボールで梱包されていたとはいえ、本当に不思議なことでした」

このことが新聞で報道されると、買い手が次々と現れ、少し湿った本も定価で買ってくれた。そして、在庫はすべて売れたのである。

「印刷機などの設備は全て流失してしまいましたが、2001年から印刷業から情報産業への転換を進めていたので、そのダメージは最少で済みました」

熊谷さんは業態変更の志を与えられ、その第一歩で特殊な売れるかどうかわからない本を出しながら、全国に知られることになる。そして、津波をかぶった聖書の多くが奇跡のように被害をまぬがれ、完売へと至る。もちろん、内容も聖書を身近に感じさせる役割を備えていた。その歩みを俯瞰してみれば、一筋の光が見えてくるようだ。

「この本の誕生から大震災までの出来事には人智を超えた神の働きがあることを痛感しました」

その結果、「自分が、自分が」という思いから「神の手のひらに自分をゆだねる」へと心境が変化したという。今後、熊谷さんは、本業のかたわら、「ケセン語訳聖書をわかりやすくした本を、全国のミッションスクールに贈りたい」と願っている。

大震災は大きな被害と痛みをもたらした。しかし震災後、そこで生きる人々には、逆境を乗り越え、この事態を経なくてはありえない恵みも与えられた。そこに、苦しむ者と共に歩まれる神の幻を見たように思えた。

(砂原俊幸)

「百万人の福音」2017年3月号より>