〝ふるさと〟久慈を愛し、神と人に生涯をささげ名誉市民に
タマシン・アレン宣教師
岩手県北東部に位置する久慈市は、盛岡市からバスで約2時間、宮古駅を経由し、三陸鉄道北リアス線を利用すれば約4時間という、いわゆる「辺境の地」だ。しかし、今日よりさらに交通手段が整備されていなかった戦前、この地を生涯の宣教地と定め、骨を埋めたキリスト者がいた。アメリカ人宣教師のタマシン・アレン女史だ。
アレンは1938年、48歳で久慈に移り住んだ。教育・医療活動、災害支援などを通して献身的に町の人々に仕え、1959年には名誉市民に、1976年に死去した際には市民葬すら営まれている。彼女の働きを記憶し、感謝する市民は今日も少なくない。アレンが創立した学校法人頌美学園は今はないが、彼女の足跡を、市内の各所で見ることができる。
「なぜ、久慈のような辺境の地を選んだのですか?」。久慈と共に生きた宣教師、タマシン・アレンは生前、こうした問いかけを受けるたび次のように答えた。「私は、みんなに分けてあげたい大きな〝たから〟をもっているからです。人は誰でもたからをもっています。そのたからは、他の人のために用いなければなりません」。アレンは、貧しさや災害にあえぐ久慈を目にした時、この地こそ自らの〝たから〟を発揮すべき地だと確信したのだ。
アレンは1890年、アメリカ・インディアナ州フランクリン市の熱心なクリスチャンの家に生まれた。父はそのふた月前に死去したが、妻ローラは「この子を、特別に伝道のため育ててほしい」との夫の遺言を守り、2人の娘を厳しく教育したという。
アレンは1911年にフランクリン大学を、15年にニューヨーク聖書学校を卒業し、北部バプテスト派婦人宣教師として来日。東京や仙台で教師として務めた。27年から2年間はシカゴ大学院神学部で学び、再来日後は遠野、盛岡などで教師として奉職する一方、各地に幼稚園を創設し幼児教育に努めた。またこの間、冷害凶作や三陸津波(三三年)の救援のため、岩手北部の巡回慰問を行っている。アレンは言う。「不況で自殺する人、娘を売る人がおり、津波では多くの人が死にました。私は、この災害は神様が『この人たちの救済のために活動しなさい』と言っておられると確信しました」
ある時、久慈を訪問したアレンは、同地の貧しさや乳幼児死亡率が全国三位以内という状況を目の当たりにする。ただちに日本赤十字社(日赤)の協力を得て乳母子の保健活動を行うとともに、幼児教育の必要を実感し、38年、48歳で久慈に移り住んだ。そしてキリスト教センターとして久慈社会館久慈幼稚園を設立。ここで開かれるようになった日曜礼拝が、後のバプテスト久慈教会(通称「アレン記念教会」)の前身である。この後アレンを支えたのが、仙台時代の教え子、矢幅(旧姓小原)クニ・武司夫妻と、武司の弟の光三だった。彼らはアレンと共に社会館の働きを牽引した。しかし次第に日米関係が悪化すると、町の社会館に対する風当たりは強くなり、〝国賊〟〝スパイ〟呼ばわりされたことも。それでもアレンは久慈を愛し、去ろうとはしなかった。
戦争が始まるとアレンは、「収容所」となった盛岡の善隣館などに抑留される。その後、43年にアメリカへ強制送還されたが、日本について理解してもらうために全米で講演活動を行い、またカリフォルニア州ツールレイクに抑留されている日本人数万人のため、弁護人・通訳となって献身的に働いた。
人々は望みを失い命を支えるだけでいっぱいでした。
収容所では責任牧師への就任を懇願されたが、固辞し、戦後再び久慈へ戻ったのだった。当時のアレンの心情は次の通りである。「私は25歳で初めて日本に渡る時、『世界の人類は一つである』という神様の声を聞き、平和の鳩として日本に渡りました。しかし、私にはその力が足りませんでした。責任の重大なことを感じ、私の同胞のために平和の使いとして命の限り役に立つことを決心し、船に乗りました。日本に降り立ち、私は泣きました。人々は望みを失い命を支えるだけでいっぱいでした。しかし、ふるさと久慈に落ち着き、また一緒に神様と人々のために働けることを喜び合いました」
アレンはすぐに、医療の乏しい現地のために社会館附属診療所を開設。日赤と共同で無料診療を行い、24時間体制で無医村地域の訪問医療と援助にあたった。さらに、岩手酪農学校を設立するなど地域の酪農の発展に貢献した。また52年には、学校法人頌美学園を設立。小・中学校を開校し、キリスト教精神に基づき徹底した少人数人格教育を行った。やがて70年、高等教育機関であるアレン短期大学(後にアレン国際短期大学)を開校。アメリカの姉妹校での語学研修が組み込まれるなど、当時としては最先端の国際色豊かな教育が実践された。
アレンは徹底して久慈を愛した。シカゴ大学より教授にと招聘を受けたこともあったが、二週間の祈りの末、日本伝道の召命を確信し、久慈に留まった。我が身を顧みない献身的な働きに対し、市は名誉市民の称号を贈っている。また国からは、日米修好通商百年記念功労米人顕彰や勲四等瑞宝章が送られた。
76年、アレンは85歳で逝去。市民葬が営まれ、生誕地であるフランクリン市に久慈市から弔電が送られた。アレンへの評価は国内外を問わず、四年後に
アメリカで出版された『果敢に挑んだ宣教師たち』の世界バプテスト宣教師二十傑に、キング牧師と共に名を連ねている。
死後40年となる今日も、アレンの功績は市民の心に刻まれている。しかし、少子化の影響でアレン国際短大は閉じられ、市のキリスト教人口も多くはなく、アレンの足跡は見えにくい。矢幅光三氏の息子で、アレン記念教会の牧(まき)牧師は次のように言う。「短大を閉じる時、父や叔父とずいぶん迷いました。しかし、先生のコンセプトは常に『今、必要なことは何か』でした。時代とともに学校は閉じましたが、先生の働きが実を結ばなかったのではなく、これから私たちがすべきことの序章だったと思っています」。今、牧さんの心にアレンの声が響く。「あなたには、たからを分かち合う責任がある」と。「基本に立ち返り、キリストを生きること。それこそが先生のなさったことでした。私たちも、そのように生きていきたいと思います」
(取材:藤野多恵)
<「百万人の福音」2017年3月号より>