《特集》『故郷(ふるさと)』の作曲家・岡野貞一とは

信仰生活

『故郷(ふるさと)』の作曲家・岡野貞一

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音楽との出会い

 岡野貞一は『故郷(ふるさと)』『春が来た』など、学校でも定番の唱歌を作曲した人物です。
 彼は多くの名曲を生み出しましたが、そのルーツはどこにあるのでしょうか?

 岡野貞一は1878年2月16日、鳥取県鳥取市で生まれました。
 そしてすくすくと育ち、小学校に入学。このころに、お姉さんの影響でキリスト教会(鳥取教会)に通い始めます。ここで演奏される讃美歌やオルガンの音に惹きつけられ、音楽を本格的に学ぶ決意をしました。
14歳の時に日本基督教団 鳥取教会で洗礼を受けます。15歳の頃なるには岡山の私立薇陽学院に入学。教会も鳥取から岡山の教会に移り、岡山の宣教師からオルガンの演奏法を習いました。宣教師は岡野貞一の音楽的才能を認めます。このことがきっかけで岡野貞一は薇陽学院退学。そして音楽学校受験のため上京をすることとなります。その後、1年もの受験勉強の末に高等師範学校附属音楽学校(現・芸大音楽学部)に入学。持ち前の才能を生かして1900年7月、首席で卒業しました。

上京、そしてその後…

その後は1906年に東京音楽学校助教授、1923年に教授となり、1932年に退官するまで音楽教育の指導者の育成に尽力したそうです。
1918年より文部省編纂の尋常小学唱歌の作曲委員であり、様々な名曲を生み出しました。
そして1941年、日本大学附属病院にて天へと召されます
63歳没。

教会での岡野貞一とその人柄

鳥取教会・岡山教会と移った岡野貞一ですが、上京後は本郷中央教会に通っていたそうです。

本郷中央教会で岡野貞一はなんと約40年にわたり東京のオルガニストとして奉仕をし、また聖歌隊の指導を続けられたそうです。
ここから岡野貞一の誠実な人柄が表れいるようです。岡野貞一で寡黙な人物であり、非常に控えめな人柄であったそうです。休みのときには近所の将棋仲間と黙々と将棋をさしていたとか。

まとめ

 実は岡野貞一が存命中は『故郷(ふるさと)』の作曲者について、家族含め誰一人知りませんでした。
 理由としては文部省唱歌が誰が書いたのか長い間公開されないままだったためです。また、もう一つ要因として岡野貞一が寡黙な人物であったこともあります。彼は自分の働きを誰にも家族にすら、誇らず天に召されました。

まるでエレミヤ書9章23、24節の言葉のようです

知恵ある者は自分知恵を誇るな。
力ある者は自分の力を誇るな。
富ある者は自分の富を誇るな。
誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知ってることを。
(エレミヤ9:23・24)