神の“みこころ”をどう理解したらいいのか
空知太栄光キリスト教会牧師 銘形秀則
「神のみこころ」について正しい理解
キリスト者にとって、「神のみこころ」について正しい理解をもつことは、神を知ることと同じくらいに重要です。「みこころ」には二つの面があります。一つは、「神の定められたみこころ」(神のご計画)です。もう一つは、「神の望まれるみこころ」(神の期待)です。前者は、必ず実現する神のご計画であり、不可抗力的です。
後者は、神の子どもとしてふさわしく生きてほしいと望んでいる神の期待です。それは人の意志にゆだねられています。神がそう願っても、私たちがその期待に応えないということがあり得るのです(J・G・ハワードJr.著、中村寿夫訳『みこころを知り、みこころに従う』/聖書図書刊行会参照)。
ここで、エペソ人への手紙から神の「みこころの二面性」について例証し、整理すると、以下のようになります。
- 「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ」(1・1)
- 「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」(1・5)
- 「みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり」(1・9)
- 「みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです」(1・11)
①~④にある「みこころ」は、すべて「神の定められたみこころ」のことです。「あらかじめ」ということばが付随しているのが特徴です。一章一節の使徒パウロの場合を考えても、彼が使徒になることは彼の意志ではなく、あらかじめ定められていたことでした。「あらかじめ」とは、すでに天において決定されていたことが、時至ってこの世に実現したことにほかなりません。すでに実現したものもあれば、これから実現するものもあります。
このように「神の定められたみこころ」は、「神のご計画」とも言えます。それは神の意志であり、必ず起こる不可抗力的な計画です。しかも、その実現のプロセスは私たちにとって予測不可能です。たとえ人間の罪や失敗、過ちや挫折があったとしても、すべてが相働いて、神の定められた目的に向かって動いていくのです。特に使徒パウロは、神の永遠のご計画についての奥義に目が開かれた人でした。それを伝えるために神に選ばれた人と言えるでしょう。さらに、
- 「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい」(5・17)
- 「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い…なさい」(6・6、7)
⑤と⑥の「みこころ」は、神の子どもとされた者たちに対して、それにふさわしく生きるようにと期待された「神の望まれるみこころ」です。それは人の意志にゆだねられているものです。
「神の望まれるみこころ」(神の期待)は、「神の定められたみこころ」(神のご計画)の中に位置づけられます。したがって、「神の定められたみこころ」について正しく理解する必要があります。そのためには、旧約も新約も一つの聖書として、全体的に理解されなければなりません。新聞を読むときのように、目に留まった記事から読むのとは異なります。また、私たちのニーズを起点とした読み方ではなく、「神様にはやりたいことがある」という視点から聖書を客観的に読む必要があるのです。こうした読み方は、次世代に対する教会の緊急課題と言えます。
神のみこころの内にある神の熱い思い
ところで、神のみこころについて知るためには、この二つの面を知るだけでなく、神のみこころの内にある神の熱い思いに触れる必要があるのです。
ヨハネの黙示録四章の最後に、二十四人の長老が自分の冠を御座の前に投げ出し、「あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造された…」(11節)と神を賛美している箇所があります。ここにある「あなたのみこころゆえに」を「あなたの喜びのゆえに」と訳している本に出合いました。
あいにく本のタイトルを思い出せないのですが、「みこころ」が「喜び」と解釈できるのだと知って、感動したことを今でも忘れません。どうしてそのように訳せるのか、私にはわかりませんでした。ところが、ヘブル語を知るようになって初めてわかったのです。
ヘブル語訳聖書では、「みこころ」ということばに「ラーツォーン」(ןוֹצרָ)というヘブル語が当てられていたからです。ギリシア語では「セレーマ」で、〈神の意志、御旨、思い、願い、望み〉という意味で使われますが、ヘブル語の「ラーツォーン」は、被造物に対する〈神の好意、喜び、恩寵、受容〉を表現する語彙なのです。ギリシア語のニュアンスには感じられない神の被造物に対する喜びが、ヘブル語の「ラーツォーン」ということばにはあるのです。このことのゆえに「二十四人の長老たち」は、神から与えられた金の冠を投げ出してまでも、ひれ伏して創造主を礼拝しているのです。「ラーツォーン」は琴線にふれる語彙なのです。
「ラーツォーン」という名詞の語源は動詞の「ラーツァー」(הצָרָ)です。それは、「好意をもって受け入れる」という意味であり、また、「償いをする、埋め合わせをする」という別の意味もあります。常に人に対する恩寵的な関わりを表します。これが、神がみこころを行うというニュアンスなのです。
定められたみこころと望まれるみこころ
「みこころ」ということばが新約聖書で最初に登場するのは、マタイの福音書六章十節の「主の祈り」の中です。「みこころが行われるように」という祈りのイメージは、ルカの福音書十五章にある「二人の息子をもつ父のたとえ話」において、息子たちに対する父の態度の中に啓示されています。
そこには、弟息子に対する「受容」と兄息子に対する「懇願」というかたちで、「ラーツォーン」が意味する二つの恩寵が表されています。「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」(19節)という弟息子のことばに左右されることなく、父は彼を自分の息子として喜んで迎え入れ、上等な着物を着せ、手に指輪をはめさせ、盛大な祝宴を催しました(受容)。
一方、弟の帰りを喜ぶことができなかった兄息子に対しては、父はその怒りを、しきりになだめようとしているのです(懇願)。
このたとえ話における「兄息子」は、神の民イスラエル(ユダヤ人)と解釈できます。彼らは、今もなお神から遠く離れています。一九四八年にイスラエルは国家として再建され、長い間にわたって離散していた多くのユダヤ人が帰還しています。しかし、その多くはいまだイエス・キリストをメシアと信じていません。御父の継続的な懇願がなされているにもかかわらずです。
けれども、やがて来ようとしている反キリストによる未曾有の大患難を通して、彼らが「恵みと哀願の霊」を注がれて民族的に回心する時が来ることが預言されています(ゼカリヤ12・10)。預言者エレミヤも、「見よ。その日が来る…」と預言しています(エレミヤ31・31~34)。「その日」には、イスラエルの全部族が世界の四方からエルサレムに集められます。これは、神の驚くべき回復のみわざです。
ここに初めて、「神の定められたみこころ」と「神の望まれるみこころ」が、完全にこの地上に実現するのです。
【百万人の福音2017年6月号特集より】