【新連載】《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ー「伝道者の書」とわたし

信仰生活

《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ー「伝道者の書」とわたし


はじめまして、菅野基似(かんの・もとい)と申します。22歳です。ただいま、フリーター生活を始めました。というのも、ついこの間まで神学生として学んでいましたが、持病である「双極性感情障害」にやられ、学び舎から退く決断をしたばかりです。ここではそんな私のささやかな闘病記とともに、私の好きな「伝道者の書」のことばをご紹介し、ともに味わいたく思います。
それに加えて、まだ理解が進みきっていない「双極性感情障害」という病をご紹介し、少しでも誰かのお役に立てればと願っています。

まえがき

(C) 2019 E.S

さて、手始めに私を苦しめている「双極性感情障害」という病を紹介します。いわゆる躁うつ病と言われているものです。かく言う私も自分が「双極性感情障害」だと診断されるまでその名を知りませんでした。
今日もSNSを開けば若者が「うつっぽい」「五月病」とふざけつつも「うつ」に苦しんでいるつぶやきが見られます。しかし、実は「うつ傾向」と「うつ病」には違いがありません。同じメカニズムで「うつ」は起こると言われています。–––多くの人が苦しむ「うつ(傾向)」、そして重症化して「うつ病」と言われる「うつ」は脳内の分泌物質、セロトニンやノルアドレナリンなどが正常に正しく分泌されないことで発症すると言われています。
ですから、誰にでも「うつ」の猛威は襲ってくるものなのです。人それぞれ程度の差はあります。しかし、私たちがどう「うつ」と向き合うのかが肝心なのです。

うつ病と双極性感情障害


さて、「うつ(傾向)」は「うつ病」と同じメカニズムで発症する意外な事実が判明しました。では、「双極性感情障害」とはなんでしょう。「双極性感情障害」は「うつ病」とは一線を引くまた別の病であるのです。「双極性感情障害」には「うつ病」とは異なった治療方法が求められ、また服用する薬さえ異なります。厄介なことに「双極性感情障害」には「躁状態」があります。「うつ状態」は比較的誰もが想像しやすいことでしょう。異常な無気力感や「死にたい」と切に願う気持ち。–––しかし、「躁うつ病」とも呼ばれる「双極性感情障害」には異常な気分の持ち上がりや興奮して一週間ほど寝なくても平気であったりする「躁状態」があります。そして普段なら絶対にしない言動や、行動をしてしまいます。なにもなければ良いのですが、多くの場合、「躁状態」に出る言葉や行動によって大きく人間関係を崩してしまうケースが大半です。そして「躁」の時期が終われば次にやってくるものが「うつ」です。こうして「躁」の時にしでかしたことを「うつ」の時に異常に悔やみ、嘆き、死を身近に願うようになります。そうです。「躁」と「うつ」の大きな波を繰り返し、患者を翻弄させ、苦しませるのが「双極性感情障害」の特徴だと言えるでしょう。

薬と副作用


もう一言、実体験者として言葉を添えるならば治すための薬で苦しむことがあります。副作用で太ったり、すぐに眠くなったります。ただでさえ病気のおかげで体は異常に重くて、だるさを抱えているのに、薬でトドメを刺すようです。また心にあるものは体に出ます。私は今も「過敏性腸症候群」に悩んでいます。ストレス性の腸の不具合です。

ここまで書いてきて、案外自分は辛い思いをしてきたのだなと思います。しかし、今、私は喜びをもってこの文章を書いています。なぜなら、聖書のみことばと出会ったからです。その喜びの理由をこれから少しずつ分かち合いたいと思います。最後にこれからの旅路に欠かすことのできない「伝道者の書」のことばを添えておきます。

悲しみは笑いにまさる。
顔が曇ると心は良くなる。(伝道者の書7章3節)

第1章「そらのそら」 その1

(C) 2019 K.O

旧約聖書にある「伝道者の書」に、人はどのような思いをもつでしょうか。なんといっても伝道者のこのことばが有名です。

空の空。伝道者は言う。
空の空。すべては空。(伝道者の書1章2節)

–––ふむふむ、なんじゃそれ(笑)

私ははじめ、そのように思いました。きっと多くの人がそのように感じて共感してくださることと思いますが、いかがでしょう。「空の空」–––そこにあるようで、実はないものを追いかけている。そういう人の哀れさ、空しさを伝道者は言い当てます。

日の下でどんなに労苦しても、
それが人に何の益になるだろうか。(1章3節)

これはギョッとすることばです。人は今も一生懸命になって学びをし、そして働きます。しかし、伝道者はそれすら空しいことだと言います。確かに、確かに。
よくよく考えてみるとそうではないでしょうか。一体なぜ学び、働くのか。人はその意味を実はよく考えない。答えをもっていない。「伝道者の書」は始まってわずか数節でそういう人の空しさ、問題点を言い当てます。

一体何の益になるのですか。どうしてそこまで頑張っているのですか。そこにどんな意味がありますか。本当はわかっていないのでしょう。–––そう伝道者は言いたげです。

学ぶ意味、そして働く意味を私たちは取りこぼしています。しかし、伝道者が見ている範疇は決してそこまでに限りません。

一つの世代が去り、次の世代が来る。
しかし、地はいつまでも変わらない。(1章4節)

人はどこか勘違いをしているようです。自分たちは進んでいる、と。確かに、新たに発見されるものや、新しい電子機器の販売は絶えません。人々は目を輝かせながら、夢中になって新しさを追い求めます。しかし、伝道者からしてみればそれもまた空しいのです。なぜなら、ものや環境は変わっても、人の本質というものはあのエデンの園からなんら変わっていないからです。

ダーウィンの「種の起源」は日本人なら学校で習います。人は猿から進化した。ふむふむ、なるほど。または偶発的に人の生命は起こった。そういうことを多くの人はなんとなく信じています。でも、本当にそれでいいのでしょうか。たとえば、複雑な働きをする体の各器官がどうして偶然にできあがったと言えるのでしょう。また、人の心には「良心」という優しさと憐れみに富んだ心があります。そういう体と心がどうして偶然に起こったと言えるでしょうか。しかし、人々はなんとなく人は猿から進化した、または、突然変異で人類が生まれたと信じています。

だとしたら恐ろしいことです。人は皆、生きる目的を失っていることになるからです。もし、人が偶然にできあがったのだとしたら、そのいのちの尊厳は失われます。人は理性がない獣と同等の生き物になるはずです。

人の生きる意味

人は今、生きる意味を失っています。新しさや気持ち良さしか求めることができなくなり、人間らしさを失っています。血相を変えて、次から次へとなにかを追い求めることしかできなくなった人間たち。しかし、それは空しい。そこらへんにいる獣と同等でしょう。

私はもともと体が丈夫な方ではありません。右耳に難病を抱え、また酷い喘息を抱え、入退院を繰り返しました。すると学校での人間関係にあっという間についていけなくなり、小学3年生から中学3年生まで不登校が続きました。
この社会は“何か”ができなくてはいけない社会です。私は少しでも“普通”になろうとしましたが、なれませんでした。
ただ哀しく、そこに変わらずに地はあります。この空しさを感じ取ることができるでしょうか。
さて早々にして、私たちは空しさを前に行き詰まりました。ズーンと沈む心に光は見えません。しかし、これがいいのです。これがすべての始まりです。

 

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