《旅する教会》プロローグ①:旅のはじまり

社会・国際

旅する教会 ーアジアの教会を訪ねて

鈴木光(すずき・ひかり):1980年、横須賀生まれ東京育ち。アメリカの神学校を卒業後、2006年に日本キリスト教団勝田教会に伝道師として赴任。2010年より主任牧師。妻と娘1人。著書に『「バカな平和主義者」と独りよがりな正義の味方』(2016年、いのちのことば社)、『伝道のステップ1、2、3』(2018年、日本基督教団出版局)。趣味は読書(マンガ)とゲーム、映画、ネット。

 これはアジアの教会のリーダーたちが、互いの国の教会やリーダーを訪ね歩いて学んでいく共同体型の研修〝PALD(Pan Asia Leadership Development)〟の様子を記した旅エッセイである。僕と旅の仲間たちの道中を、どうぞお楽しみください。(毎週火・金曜日更新!)

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旅のはじまり

マレーシアの玄関口に立つ

 2018年 春の某日、僕はマレーシアのクアラルンプール国際空港にいた。
 そして正直少し、面食らっていた。
 その空港は僕のイメージしていた「東南アジア」からは、だいぶかけ離れたゴージャスな空港だったからだ。恥ずかしながら、僕はこの時に初めて自分のアジア観が既に何十年も遅れていることに気づいたのだった。
 多分すごく怒られると思うので、愚かな発言だということを先に謝っておきたいのだけれど、僕のイメージの中での東南アジアはひどく貧しく、トイレが汚くて、食事の衛生状態もすごく悪い場所だった。この後、旅の中で実際に全体を見回せばそういう部分も確かにたくさんあったのだけど、少なくともクアラルンプール国際空港は、豪華で、綺麗で、ターミナル間を結ぶエアロトレインもなんとなくハイテクっぽくて、要するにかっこよかったのだ。
 「あれ、ちょっと思ってたのと違うぞ」という第一印象。そして、これから始まることの中で、僕は新しいことをたくさん知るのだなと予感したのだった。

 そもそも、なぜマレーシアにいるのか。
 話は2018年の年始頃にさかのぼる。
 アジアン・アクセス(Asian Access)という国際宣教団体がある。50年にわたって陰に陽に日本の宣教に関わってきた超教派の団体だ。その現在の日本の代表者(National Director)である播義也牧師から連絡をもらったのだ。
 「Pan Asia Leadership Development(以下PALD)」という新しい研修があるから参加しないかというお誘いだった。この播先生とは以前からの付き合いで、良くも悪くも色々とあるのだがそれは後ほど詳しく書こうと思う。とにかく、このPALDでは各国から2名ずつが参加し、アジアの5か国が持ち回りで研修を行うという。その日本からの2名を播先生と僕の2人でやろうと言うのだ。
 実は半年くらい前から、そういう研修があるからどうかという話はされていた。でも、僕自身は日本での伝道に集中したかったので、あまりピンときてはいなかった。もっとはっきり言えば、海外、特にアジアにはあまり牧師として関心がなかった。

大勢の人でにぎわうクアラルンプール国際空港(Wikimedia Commons)

聖書のことばに背中を押されて

 それでも参加することにしたのは2つ理由がある。
 一つは、連絡を受けたのが年始の比較的時間に余裕がある時だったこと。ふだんなら「余計なことに首を突っ込む余裕はないぜ」みたいな反応になるのだが、時間に余裕があって、気が大きくなっていたのか「まあ大丈夫だろう、やるか」みたいな感じになったのだ。

 もう一つは聖書の言葉に励まされたこと。我が家(妻1人、娘1人と僕)では、朝食の時に短く聖書を読んでいる。知っている人は知っている『日々の聖句Losungen』(2018年版、ベテスダ奉仕女母の家出版部)という本で、毎日旧約聖書から1節、そしてその個所に合わせて新約聖書から1節が記されていて、赤い表紙の小冊子にまとまって毎年出版されている。
 その2018年1月26日の新約聖書の個所にこうあった。
 「神の賜物と招きとは取り消されない(ローマ11章29節 新共同訳)」
 僕は「これは神様の語りかけだ」と感じた。
 気が大きくなって思わず返事してしまったので、応えた以上はPALD研修に参加しようとは決めていたけど、はっきり言えば興味の無いアジアの国々との研修に加わる意味は何だろうかと思っていた。そんな心の片隅にずっとあった疑問に、この聖書の言葉は神様からの応えだと感じたのだ。
 神の賜物と招きは取り消されない。自分に与えられた神様の招きを思い出すように、うながされているのかもしれない。

 僕は大学3年の夏に早稲田大学KGK(キリスト者学生会)の集会で献身の召命を受けた。不思議に突き動かされて、自分は人生を神様にささげようと決心をした。でも、すぐに悩みが生じた。ささげるのはささげるけど、どうやってささげよう、と悩んだのだ。牧師や宣教師のような、いかにもそれっぽい職業でなくても、人生をささげて神様に仕えることはできる。
 僕は牧師だった父親の姿を見て育つ中で、この仕事は自分には務まらないし、大変そうでやりたいとも思わない、と感じていたから特に悩んだのかもしれない。

 はやる気持ちと迷う気持ちに葛藤している時に、やはり聖書の言葉をとおして神様から語りかけられた。その時の御言葉はこう。
 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィリピ4:6-7 新共同訳)」
 求めているものを打ち明けよ、と言われた時に、僕はふと思った。「僕はいったい何を求めているんだろうか?」自分が何を求めて生きているのかなんて考えたことはなかった。

 そこで祈りの中で自分の内を探っていくと、自分の求めている願いが4つ、浮かび上がってきた。第1に、すべての人がイエス・キリストを知ること。第2に、僕自身がもっと深く神様を知ること。第3に、賛美の内に生きること。最後に、できるだけ平和に生きること。
 自分の願いの中で、最も重要なものが「すべての人がイエス・キリストを知ること」であり、僕自身の与えられている経験や育った環境も踏まえた賜物を合わせて考えるなら、まずは牧師を目指そうとはっきりと心が決まっていった。すると、人知を超えた不思議な神の平和が自分の内に満ちてくるのを感じたのだった。
 これが20年近く前に受け取った、僕の神様からの召命だった。

神の新たな“わざ”に膨らむ期待

 話を戻そう。なぜ、アジアを巡る、「旅する研修」に参加するのか。それは、「賜物と召命は変わることがない」と語りかけられた時に、実はこの旅が初めからの召命に応えることにつながっていると気づいたからなのだ。
 「すべての人が、イエス・キリストを知る」と言う時、すべての人にはもちろん日本のみならず世界のすべての人々が含まれている。確かに日本に住む人々に特に思い入れがあるけれども、その人たちに届くためにも、今、ここで得る経験がきっと必要なのだ。
 2018年当時、自分が仕えてきた教会で、10年計画を進めてきて9年が経っていた。がむしゃらに走り抜けてきた9年だったけど、実りもたくさんあった。同時に、自分の教会の成長だけではどうにもならない限界を感じていた。今、もう一度、はじめの召命に立ち帰って、神様が次に見せようとしていることに目を留める時なのだ、と僕は悟った。

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