《旅する教会》バングラデシュ編⑦:マジョリティにも届け

社会・国際

旅する教会 ーアジアの教会を訪ねて:バングラデシュ編⑦

鈴木光(すずき・ひかり):1980年、横須賀生まれ東京育ち。アメリカの神学校を卒業後、2006年に日本キリスト教団勝田教会に伝道師として赴任。2010年より主任牧師。妻と娘1人。著書に『「バカな平和主義者」と独りよがりな正義の味方』(2016年、いのちのことば社)、『伝道のステップ1、2、3』(2018年、日本基督教団出版局)。趣味は読書(マンガ)とゲーム、映画、ネット。

 これはアジアの教会のリーダーたちが、互いの国の教会やリーダーを訪ね歩いて学んでいく共同体型の研修〝PALD(Pan Asia Leadership Development)〟の様子を記した旅エッセイである。僕と旅の仲間たちの道中を、どうぞお楽しみください。(毎週火・金曜日更新! この旅のはじまりについてはこちら

マジョリティにも届け

バングラデシュのキリスト教事情

 バングラデシュ3日目の午前は、だいぶ見慣れてきたダッカの風景を楽しみながら、Bangladesh Baptist Church Fellowship(BBCF)という教団の本部を訪れた。
 迎えてくれたレオさんは、教団の総幹事であるとともに、実はピーターと共同で伝道団体「アジアン・アクセス」のバングラデシュ代表(National Director)を務めている人でもある。教団の本部事務所を見学させてもらい、その後にレオさんから見たバングラデシュの宣教の様子と、教団としてのチャレンジを分かち合ってもらった。
 少し紹介しよう。

 バングラデシュの総人口は1億7000万人。その90%がムスリム(イスラム教徒)で、クリスチャン人口は0.4%である。
 国の特徴として、やはり圧倒的に人口密度が高いことが挙げられる。平均人口密度は日本の約4倍もある。
 レオさんが仕えるBBCF教団は1919年に始まり(国家としてのバングラデシュよりずっと古い)、最初は11教会だったが現在は525教会にまで成長している。21の民族に伝道が広がり、800人以上のフルタイムスタッフが教会に仕えている。

総幹事室でのレオさん(左)と著者

宣教の歴史と課題

 当初は宣教師によって伝道がはじまったが、やはりイスラムの教えが強い地域だったため、その影響が比較的薄い、低いカースト(身分制度)の人々を中心に伝道が続けられてきた。特に地方の村々できちんと計画をもって地道に伝道をしてきたという。
 聖書のモデルにならって村に伝道者を派遣し、村に益となる医療や教育の働きをしながら、まずきちんと関係性を作っていく。そして、少しずつ伝道をしていくのだ。

 人々は、基本的には教会がやっている医療や教育などの援助や福祉的な働きには好意的だが、信仰に関することに踏み込むと、過激な反対をする人もやはり一部いるとのこと。そういった信仰的な課題を背景に、外国人を狙ったテロなどが何度か起きていて、ニュースとして日本でも知られているものもある。

 現在直面している課題もいくつか挙げてくれた。
 まずは、やはりテロなどを起こすイスラム過激派の存在や、そもそものキリスト教に対する根強い反感、暴力を伴う迫害がある。また、海外から送られてくる宣教のための献金の受け取りが政府から制限されていること。そして洪水や台風などの自然災害もある。
 ほかにも、これは田舎で少数民族伝道をしているクシも言っていたことだが、地方では交通インフラがまだ未整備なところが大部分ということも課題だそうだ。つまり移動が非常に不便なのだ。

 そもそもクシが今回の研修でダッカまで来るのに、列車で8時間かかったらしい。それは距離的な理由だけでなく、列車の能力はもちろん、ストなどで止まったりすることも頻繁にあるらしい。
 クシ自身は地方の村に住み、地域の村々でいくつも教会開拓を進めているが、その働きの中でも移動の困難さの影響が大きいという。最初に会った時から「バイクが与えられるように祈ってほしい。そうすればもっと働きがしやすくなるんだ」と祈りの要請を受けていた。
 祈ろう。

バングラデシュのマジョリティ=ムスリム

 最後に、僕がレオさんの話でもう一つとても印象に残ったのは、「これまで自分たちは低カーストの貧困層や、少数民族などに特に伝道をしてきて、それはこれからも変わりないのだけど、マイノリティにばかり目をとめてマジョリティへの伝道を最初から諦めていたことを反省し始めているのだ」ということ。
 前日に聞いたアサ牧師の話はまさに、マジョリティであるムスリムの人々への伝道についてだったので、ここで話がつながったように感じて非常に印象深かった。

 また、この「マジョリティへの伝道をあきらめてしまっていた」という課題の指摘は、僕自身がずっと日本での伝道の中で似たようなことを感じていたので、とても共感した。
 日本もバングラデシュと同じく、クリスチャンそのものがマイノリティな状況がある。だからこそ、信仰面でなくマイノリティの立場にある人たちに共感をもって届きやすかったという面が、少なからずあったと思う。一方で、それがいつしか「クリスチャンはマイノリティで当たり前」、あるいは「マイノリティであるべき」とすら言うような雰囲気ができているように思う。

 マイノリティはマジョリティの中で居づらさを感じることは確かにある。でも、そのせいかマイノリティの中にいることに居心地の良さを感じ、引きこもってしまう面もあると思う。でも、こと私たちの信仰に関しては、このマイノリティ意識には違和感をずっともってきた。少し思い切って言えば、その背景には、福音の素晴らしさへの過小評価があるのではないかと思っている。

 僕はイエス様が素晴らしいと思っている。それは当たり前だと言われるかもしれないが、本当に素晴らしいという言葉だけでは表しきれないほどで、言ってみれば崇拝しているのだ(これも当たり前か…)。
 しかし、日本の中でのイエス様の扱われ方を考えると、ものすごくイエス様に対して申し訳なく感じることがある。たとえば、アイドルや歌手のコンサートには(有名な人なら)高価なチケットが必要でも何万もの人々が集まり、熱狂する。一方で、命を懸けたイエス様はほとんど見向きもされなくて、ファン(もちろんたとえですが、つまりクリスチャン)たちは、そのことを隠してこっそり少人数で集まるのが当たり前だという風情でいる。
 「推しが売れるのは複雑」とか言っていてはいけない。私たちの主はアイドルではなく生ける神様なのだから。

 誤解がないように言っておくと、これはあくまでたとえで、別にたくさん集まればいいという話をしたいわけじゃない。そうではなくて、本当はもっと崇拝されるべき方がされていないのは、本来伝えるべき立場の私たちが「いや、ちょっとマニアックな話なんで、マニアックがいける人だけ聞いてくれ」みたいな感じで、それがいいみたいにやってきたところがあるんじゃないかということだ。「にわかファンは来るなよ」という排他性が教会には現実にないだろうか(なければ幸いだ)。

 僕は牧師なので、そのことで定期的にものすごく落ち込んでしまう。自分のふがいなさというか、そういうのを感じるのだ。
 「マジョリティに届け」というチャレンジは、本当にチャレンジで、マイノリティの居心地よさにどっぷりつかっている自分には、大きな壁を感じるのは確かなのだけど。同じクリスチャン・マイノリティ国のバングラデシュで、果敢にその壁に挑もうとしている人々を見て、やはり心は揺さぶられた。

バングラデシュ編⑧「力強い女性たち」へ >