《旅する教会》ミャンマー編⑧:パガンで

社会・国際

旅する教会 ーアジアの教会を訪ねて:ミャンマー編⑧

鈴木光(すずき・ひかり):1980年、横須賀生まれ東京育ち。アメリカの神学校を卒業後、2006年に日本キリスト教団勝田教会に伝道師として赴任。2010年より主任牧師。妻と娘1人。著書に『「バカな平和主義者」と独りよがりな正義の味方』(2016年、いのちのことば社)、『伝道のステップ1、2、3』(2018年、日本基督教団出版局)。趣味は読書(マンガ)とゲーム、映画、ネット。

 これはアジアの教会のリーダーたちが、互いの国の教会やリーダーを訪ね歩いて学んでいく共同体型の研修〝PALD(Pan Asia Leadership Development)〟の様子を記した旅エッセイである。僕と旅の仲間たちの道中を、どうぞお楽しみください。(毎週火・金曜日更新! この旅のはじまりについてはこちら

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パガンで

最終日、ホテルを出て再びバスで5時間かけて、パガンへ。パガン遺跡群は世界三大仏教遺跡(アンコールワット、ボロブドゥールに並んで)の一つとされていて、地域全体にたくさんの仏塔(パゴダ)や僧院が点在している。

この地域に入る所でいったん検問所があって、バスが止められた。検問所といっても何か検閲されるというより、入場料を払うということのようだ。遺跡の地域に入るには1人25ドルかかるのだが、これはミャンマーの平均月収と同じくらいだそうな。環境整備と観光業の両方のためにそれだけとっているのだろう。
 マンダレーの中心から南西に200kmくらい移動するので、植生もだいぶ変わる。だいぶ高温で乾燥している感じだけど、緑は少なくない。雨はあまり降らないらしく、10月くらいにまとめて降るのだそうだ。米よりもコーンやゴマが作られている。

 車で移動していると色んなものを目にして楽しい。たとえば、よく牛を見かけたのだが、くびきを負って歩く2頭の牛と、その後ろから子牛がついてあるく姿をみかけた。「わたしのくびきを負って…」は有名な聖書の箇所だけど、イエス様と歩く弟子の姿と、さらにそれを見てついて行く人のようなイメージだなと思う。
 珍しかったのは歌いながら歩いている人々の列があったのだけど、それは葬儀の列なのだという。確かに列の真ん中には棺桶らしきものを担いで歩いている男性たちの姿もあった。

葬送の列

パガンの宣教

 パガン地域に入ると、すぐに至るところでパゴダ(仏塔)を目にする。仏僧たちの姿もたくさん見える。彼らは通常は僧院に住んでいて、パゴダには礼拝や祈りのために来るのだそうだ。

普通にそこら中に点在するパゴダ(仏塔)

 街のレストランに到着する。明らかに子どもが何人か働いている。レストランの家の子だろうか。義務教育とか大丈夫かなといらぬ心配をしてしまう。
 ここではパガンの新市街、ニャウーという地域のA牧師夫妻、そしてその教会で信仰をもったこの地域で初のクリスチャンである女性から話をうかがう。

 このA牧師はもともとこの地域でシェフとして働いていたが、献身して17年ほど働きを続けている。やはり仏教古都ということで、最初の頃は石を投げられたり、「礼拝はしません」という誓約書を書かされたり、苦労は絶えなかったという。
 最近はやっと地域の行政関係者とも関係が築かれてきて、海外の教会の支援で建物も取得し伝道ができているそうだ。それでも、今なお集まっての礼拝はできず、基本的には各家庭を回って小さな集会をするスタイルでやっている。
 現在、ここニャウーには彼らの教会含め2つ、パガン(旧市街)には1つの教会がある。福音の説教をすることは許されていないので、医療(病院連れて行ったり薬あげたり)、教育(縫物を教えたり)、物資の支援などで必要に答えながら個人的関係を作って、そこで個人的に福音を伝えていくしかないという。また、個人的に信じる人がおきても、家族関係などからなかなか公の告白は難しいという場合も多いらしい。

 証しに来てくれた、伝道初期に信仰をもってクリスチャンとなった女性は、お子さんの置かれた状況を分かち合ってくれた。息子さんの通う学校では、公立であるけれど仏教的な礼拝時間が最初にあるそうで、その時間は別のところに座って、「僕にはイエス様がいるから」と参加をしないようにさせてもらっているという。よっぽど勇気のいることだろうと思う。
 一方で、クリスチャンでない人が、体調を崩して病院に行く前に、わざわざ彼女の家に寄って「祈って」と言ってくることがあるという。彼女いわく、クリスチャンの祈りは聞かれると知っているからだそうだ。確かにある困難の中で地道に信仰を証しし、福音を伝えている教会の姿がそこにあった。
 
ここでもトイレ事情

 急に話は変わるが、途中、トイレに行ったのだけど、なかなかの異文化体験があった。
 前置きとして、以前、インドやバングラデシュでのトイレで、直接シャワーでお尻を洗う文化について話したと思う。シャワーが設備としてない場合は、水桶と手桶があって、それを使って水と手で洗うということを理解しておいてもらいたい。
 僕としてはその強烈シャワーのアジアンウォシュ〇ットの魅力にかなり惹かれているのだが、一つ疑問があったのだ。上品な施設では、トイレにペーパーも置かれていて、手(もしくは洗ったお尻)が濡れていてもそれで拭いて、ごみ箱も置かれているのでそこに捨てたらよい。
 しかし、ペーパーが置かれて無い場合も結構あるのだ。

 え、じゃあ、濡れたままで皆どうするの? という疑問。
 ずっと気になっていたのだが、たまたまカンボジア組と同部屋になった時にその話をすると(カンボジアもそのスタイルのトイレなので)、こともなげに「いや、濡れたままズボンはくよ、そのうち乾くから」という。
 僕は激しく動揺して、「う、嘘だろ。濡れてたら気持ち悪いじゃん」と言うのだが、「いや、でもすぐ乾くし」の一点張りである。にわかに信じられず、彼らは僕をだまそうとしているんじゃないかと思ったのだが、それを聞いていた播義也先生が重大なことを打ち明ける感じで口を開き、「いや、本当なのだ」という。

 播先生も最初驚いたそうだが、彼が前々から何度か訪れてきたインドの奥の方やネパールの地方では、実際もっとトイレ環境は粗雑だったという(ここミャンマーでも車の移動中に寄るトイレはなかなかのもんであるが)。そこで、播先生も「郷に入れては郷に従え」、いや「ローマ人にはローマ人のように」の精神を発揮して、同じようにやってみたらしい。
 すると、最初は気持ち悪いものの、やってみると意外と大丈夫! ということがわかったという。
 だから何だと言われれば困るが、そんな会話があった。

少年の受難

 それで、やっと本題に入るが、そのレストランのトイレに行くと、男子トイレには座って使う便器が2つあり、片方はすでに扉が閉まって使われていた。僕は当然空いている方に入って用を足す。もうお尻シャワーも慣れたもんだが、なんとそこには(そこそこきれいなレストランなのに)ペーパーが置いていなかったのだ。しかし、そこは僕も一番用心しているところなので、ちゃんと持ち歩いているペーパーを使って事なきを得た。

 ところが、隣のトイレから子どもらしき男の子の声がするのだ。現地の言葉なので残念ながら僕はまったくわからないが、何やら困っているように聞こえる。しかし、何に困っているのか分からないので、英語で「大丈夫か?」とか聞くが困惑した返事しかこない。
 やがて、あきらめたようで、僕より先に彼が隣のトイレから出た気配がする。そして、間もなく、ゴーっという風が吹いてくるような音が聞こえ、同時に彼の「ああーっ!」という悲鳴が聞こえたのだ。
 「どうした、大丈夫か?」と僕も心配になり、そそくさとドアを開けて外に出ると、男の子は既に出て行ったらしく姿は見えない。そして…そこには、まだゴーっと動いている、手の乾燥機があったのだ。

 僕はすぐに起きた出来事を理解した。おそらく彼も普段は紙を使っていたのではないだろうか。しかし、なかったので困ったのだ。あきらめて出るとそこに送風機的なものがある。彼は「これだ!」と思い尻を乾燥機に向けたのである。そこから熱い風が吹いてくるとは知らずに…。
 というか、手の乾燥機があるくらい設備が整ってるなら、ペーパーも置いておいたらいいのでは、という気持ちは確かにあったが、大人の男たちは濡れたままズボンを履いて一人前なのだろう。あの男の子は(誰か知らんが)こうして大人の階段を一つ登ったのだ。

パガンの位置関係についてはミャンマー編①の地図をご覧ください。

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