《旅する教会》ミャンマー編⑥:埋もれた岩の上に

社会・国際

旅する教会 ーアジアの教会を訪ねて:ミャンマー編⑥

鈴木光(すずき・ひかり):1980年、横須賀生まれ東京育ち。アメリカの神学校を卒業後、2006年に日本キリスト教団勝田教会に伝道師として赴任。2010年より主任牧師。妻と娘1人。著書に『「バカな平和主義者」と独りよがりな正義の味方』(2016年、いのちのことば社)、『伝道のステップ1、2、3』(2018年、日本基督教団出版局)。趣味は読書(マンガ)とゲーム、映画、ネット。

 これはアジアの教会のリーダーたちが、互いの国の教会やリーダーを訪ね歩いて学んでいく共同体型の研修〝PALD(Pan Asia Leadership Development)〟の様子を記した旅エッセイである。僕と旅の仲間たちの道中を、どうぞお楽しみください。(毎週火・金曜日更新! この旅のはじまりについてはこちら

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埋もれた岩の上に

 次に、インワ(Inwa)という古代都市だった街を訪れる。ここでサヤパ(PALDのミャンマー組)の従弟が国内宣教師として14年間にわたって伝道をしている。彼と落ち合って、まずは1800年代初めに当時の王妃によって建てられたという仏僧院の遺跡を見学する。

僧たちが住み込みで修行していた僧院

 そこから車で少し移動して、次に向かったのは森というか丈の長い草地だった。藪の中、蚊を手で払いながら進む先に大きな木が見えた。そしてその下に白い壁の破片が、岩のように無造作に置かれている。
 ここがAdoniram Judson(以下ジャドソン)がかつて激しい迫害を受けた収容所の跡地なのだ。

岩のような収容所の壁跡

宣教師ジャドソン

 ジャドソンは1800年代前半に、約40年にわたってビルマで活動したアメリカ人宣教師だ。アメリカ人の宣教師としても、ビルマの宣教師としても最初期の一人で、初めて聖書全体をビルマ語に訳し、多くのバプテスト教会を建てた人である。
 イギリスとビルマの戦争中、英語を話す外国人として(実際は彼はイギリス人ではなかったのだけど)、そして異教の伝道者として、スパイのような扱いをうけて投獄されたという。このインワと後ほど訪ねる町で、合わせて2年間にわたって苛烈な扱いを受けていたそうだ。

 先ほどの王妃の建てた仏僧院は遺跡として保護されているが、同じ時代になされた激しい迫害の場所となったこの収容所跡は負の歴史として消され、地図にも残っていない。僕たちは連れて行ってもらったのでそこにたどり着いたが、完全に跡はなくされていて、草で覆われている。ジャドソンの子どもたちが後に建てた記念碑も(記録には写真で残っている)今は埋められてしまったという。木の下に置かれた大きな岩は、誰にも気づかれないように何も書いていない、でも分かる人にだけは分かるようにしてある目印となっている。
 置かれた大きな岩は「私はこの岩の上に教会を建てる」と言われたイエス様の言葉を連想させる。収容所はなかったことになっているが、確かにここからビルマの福音伝道が始まった。今、この地域にはサヤパの従兄弟の教会が1つあるだけで、20人のクリスチャンが変わらず迫害の中で働きを続けているという。

 ジャドソンのビルマ宣教は最終的に多数の教会と数千のクリスチャンを生み出すことになるが、最初の十数年間の働きで信仰をもったビルマ人はわずか18人だったという。ジャドソンの働きもこの収容所からの解放後に爆発的に拡大していった。もちろん背景としてはイギリスの統治が始まって外国人による伝道がしやすくなったということはあるかもしれないが、それまでの積み重ねてきたものが実を結んだのだと思う。18人からビルマ全土に。その200年前と同じことが、再び始まっているように見えて、ここからまた神様の奇跡が見られるという期待を感じた。

今日のインワで

 さて、実際にそこからほど近い場所にサヤパの従兄弟の牧師(仮に従兄弟先生とする)が開拓している教会があった。
 石壁の小さな会堂の中で、お話を聞くことができた。

 サヤパの従兄弟先生がこのインワで伝道を始めたきっかけは、聖書学校時代に見た夢だった。とある女性が自分の荷物を持ってインワに来るという夢。
 正直言ってインワについては何も知らなかったが、導きなのだろうと信じてとりあえず宣教するために来てみたという。ここは古代都市なので、保護区的なものでもあるらしく、そもそも住むこと自体に許可証が必要だったそうだが、不思議と人のつながりが与えられ、神様の導きでなんとか許可がおりた。
 来てしばらくして、癌におかされた女性と知り合ったのだが、彼女がまさに夢に出てきた女性だったのだと言う。福音を伝えて、その人がクリスチャンになり、今の場所を使わせてくれることになった。彼女がこの地域で最初のクリスチャンになった。

 仏教の歴史的な背景のある古都で、仏教が支配的な地域なので、今でも日曜の礼拝の時は全部の窓を閉め切っている。ちょっとでも音がもれると文句を言われ、窓が開いてると石が飛んでくるからだそうだ。
 話を聞いている時は普通に窓もドアも空いているがそれでも暑い。おそらく真夏などは締め切っていれば危険なくらい暑いと思う。
 地域の助けになって信頼を得られるようにと、無料の託児所を開いている。なぜ無料なのかというと、料金を取ると誰も来ないからだと言う。そういう中で、経済的にもいつもギリギリで満たされて続けられていると話してくれた。彼らの働きのためにこれからも祈りたい。

従兄弟先生の会堂で

ジャドソン夫妻の想い

 皆で従兄弟先生一家のために祈り、彼らと別れを告げて、車で1時間弱走ってマンダレーに戻る。途上でマンダレーのFirst Baptist Churchを訪れた。この教会はジャドソンの息子さんが寄付して建てられた記念教会でもある。この建てられている場所が先ほどのインワの収容所に続く、ジャドソンにとって2つ目の収容所だったという。

 ここではジャドソンの夫人アンについても(確か教会のご婦人からだったと思うが)聞いた。彼女はジャドソンが収容されていた当時、歩いて6か月もかけてインワからここまで夫を探して来たという。彼女自身が病気で、さらにはジャドソンが収容中に生まれた赤ちゃんもいたのに、夫の釈放のために働きかけを続けながら移動してきた。

 ジャドソンが釈放され、戦争が終わるころ、「これがまた宣教のチャンスになるかもしれない」と彼女は手記に書き残したという。そして、病のために間もなく亡くなるのだが、上述したようにその後にビルマ伝道は驚くような実を結び始めたのである。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ(ヨハネ12:24)」の言葉のとおりに生きた宣教師夫妻。その熱い想いを時代を超えて感じた。

インワの位置関係についてはミャンマー編①の地図をご覧ください。
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