《旅する教会》ミャンマー編④:19世紀の王都で

社会・国際

旅する教会 ーアジアの教会を訪ねて:ミャンマー編④

鈴木光(すずき・ひかり):1980年、横須賀生まれ東京育ち。アメリカの神学校を卒業後、2006年に日本キリスト教団勝田教会に伝道師として赴任。2010年より主任牧師。妻と娘1人。著書に『「バカな平和主義者」と独りよがりな正義の味方』(2016年、いのちのことば社)、『伝道のステップ1、2、3』(2018年、日本基督教団出版局)。趣味は読書(マンガ)とゲーム、映画、ネット。

 これはアジアの教会のリーダーたちが、互いの国の教会やリーダーを訪ね歩いて学んでいく共同体型の研修〝PALD(Pan Asia Leadership Development)〟の様子を記した旅エッセイである。僕と旅の仲間たちの道中を、どうぞお楽しみください。(毎週火・金曜日更新! この旅のはじまりについてはこちら

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19世紀の王都で

 3日目の朝は文字通りの「コケコッコー」という鶏の鳴き声で目を覚ました。デボーションを終えて、ホテルの食堂に朝ご飯を食べに行く。ご飯や目玉焼きなどもあったが、サヤパが「これがビルマ(ミャンマーの旧称)で一般的によく食べる麺だよ」と言って勧めてくれたものを食べた。米粉(?)の素麺みたいな麺にナッツとか卵とかの混じったタレを絡めて食べるのと、それをドロンドロンに煮込んでおかゆみたいになったやつ、両方とても美味しかった。
 朝食をとりながら高澤先生と話していると、ここまで奥の方(北部)まで来られたことが民主化の結果だと思うという。以前に高澤健先生(日本からの参加者。アジアン・アクセス・インターナショナル副総裁)が来たときは、国内でも行けるところは制限されていたし、ホテルの部屋にいたら頼んでないコーヒーを持ってきて、部屋の中をキョロキョロと探っていたボーイさんがいたそうで、おそらく監視役だったと思うという。
 ホテルを出発して再びマンダレーの町に向かう。道々、街では托鉢僧が食べ物など受け取るための黒い釜を抱えて歩いている姿をけっこう目にする。若い、というか子どもの托鉢僧も見かける。

托鉢のお坊さん

旧王都マンダレー

 かなり蛇行する道をとおって約二時間で、マンダレーに到着。本当にグネグネした、いろは坂みたいな道だったので、播先生は少し酔っていた。幸い僕はずっと寝てたので比較的元気。
 大学時代に中国の新疆の踏査に連れて行ってもらった時、タクラマカン砂漠をミニバンで長い時間走った時を思い出す。院生の先輩がバックシートの上で胡坐(あぐら)をかいて横になって寝るという妙なスキルを発揮していて記憶に残っていたのだが、自分もミャンマーの旅ではかなりこの態勢のお世話になった。腰を痛めないような態勢を模索するうちに自然にたどりついて、「あの先輩がやっていたのはこれか!」と変な合点がいった。

 そして、マンダレーのホテル着いて荷を下ろすとまたすぐ出発。ハードだ。向かったのはイギリスとの度重なる戦争の合間、1853年に生まれた王朝の宮殿だ。王都跡全体がまわりをグルっと水堀で囲まれていて、さすがの王都という感じでとにかく敷地は広い。車で宮殿近くまで行って、いくつか遺構や展示物を見て回った。
 昨日のメイミョは標高が高かったので暑さをそんなに感じなかったが、ここはうだるような暑さだった。
 最初の王ミンドンの墓があり、そこを見ている時に、ウェスレー(参加者。ミャンマー組)が「実は自分の奥さんはこの人の血筋なんだ」と言い出す。変なジョークかと思ったら本当らしく、同行していたウェスレーの娘さんは世が世なら王女だったんだね、と盛り上がる。イギリスとの緊張関係の中での短命な王朝だったので、その世代でなくてよかったねという面もあるが。

ミンドン王の宮殿

 関係ないが、王宮を見学していると、観光に来ていると思われる家族連れがいて、夢中で子どもたちの写真を撮っているお父さんの姿を見て、こういうのはどこの国も同じだなと微笑ましく思っていた。そしたら、何やらミャンマー組がざわざわしているので何かと思ったら、その家族がミャンマーでは超有名な歌手と女優の夫妻らしい。そう聞くと野次馬根性が湧いてきてそれとなく顔を見てみるのだが、もちろん僕が知っているわけもなく、楽しそうな家族の姿にただ幸あれと思うのだった。

 物見塔に上ると景色が良く見える。ただ、僕は高所苦手なので、あまり楽しむ余裕はなく、とにかく早く降りたかった。

 王宮を出て少し移動すると、大量の石版の仏教聖典がならぶ場所に寄った。ミンドン王が寄贈したものだそうで、どれもサンスクリット語で書かれている(らしい)。入り口の看板には宗教和解団体の共同献金で保存されているそうなので、初日の話にちょっとつながったなと思った。
 また面白いことに王が寄贈したという英国国教会の会堂にも寄った。ミッションスルークも附属していて、王の子どもたちも通っていたそうな。

 マンダレーの位置関係についてはミャンマー編①の地図をご覧ください。

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