旅する教会 ーアジアの教会を訪ねて:カンボジア編①
鈴木光(すずき・ひかり):1980年、横須賀生まれ東京育ち。アメリカの神学校を卒業後、2006年に日本キリスト教団勝田教会に伝道師として赴任。2010年より主任牧師。妻と娘1人。著書に『「バカな平和主義者」と独りよがりな正義の味方』(2016年、いのちのことば社)、『伝道のステップ1、2、3』(2018年、日本基督教団出版局)。趣味は読書(マンガ)とゲーム、映画、ネット。
これはアジアの教会のリーダーたちが、互いの国の教会やリーダーを訪ね歩いて学んでいく共同体型の研修〝PALD(Pan Asia Leadership Development)〟の様子を記した旅エッセイである。僕と旅の仲間たちの道中を、どうぞお楽しみください。(毎週火・金曜日更新! この旅のはじまりについてはこちら)
惨劇の記憶
2019年秋のある日、ついにこのPALDの最後の旅となるカンボジア、プノンペン空港に到着した。今回はアジアンアクセス・ジャパンのスタッフとして今年から働きに加わっているルイ君と、日本から同じ飛行機でやってきた。
今回は最後ということもあって、まとめとしてそれぞれの参加者が学んだことや受けた恵みをインタビュー形式で証しして、それを収録する時間がある。そのためにアジアンアクセス(インターナショナル)のメディアチームが帯同するということで、ルイ君もメディアスタッフとして経験を積むために、収録作業に参加することになったのだ。
プノンペン空港にはカンボジアからPALDに参加しているダレが迎えに来てくれていた。実は今回も日程的に、プログラムの開始から少し遅れての到着になってしまい、皆は既にKilling Field(ポルポト時代の虐殺の処刑地)を見学に行っているらしい。僕とルイ君は、その次の予定のミュージアム見学から合流することになった。
新しくて立派なプノンペンの空港を後にして、車で市内に向かう。アジアの旅の恒例になっているが、通りにはやはり日本車が多い。ほかにベンツも何度か目にして、日本車もそうだけど、わりと高級な車が走っている印象があった。一方で、トゥクトゥクと呼ばれるドアなしの小さなタクシーも至るところで走っている。トゥクトゥクはバイク型も車型もあって、本当にたくさん見かける。
これまでの3か国(バングラデシュ、インド、ミャンマー)と違うのは、選挙関係の貼り紙をほぼ見かけないことだろうか。それは貼り紙禁止だからなのかもしれないが、むしろ政治体制的な問題なのかなとも思ったが、分からない。
トゥクトゥク
「虐殺ミュージアム」へ
さて、市内に着いて最初の目的地はTuol Sleng Genocide Museum、つまり虐殺ミュージアムということだ。カンボジアといえば、やはり決して遠くない過去に起きた惨劇の歴史を抜きに語ることはできない。一説には300万人以上がポルポト派によって虐殺された時代のことだ。
Tuol Sleng Genocide Museum
このミュージアムは、元は高校の校舎だったものが、ポルポト派の当時は監獄として使われ、人々を逮捕、拷問して、処刑するまで留置していた場所そのものだ。ここからKilling Fieldに連れて行かれて連日多くの人々が処刑された。もちろん、この場所で死んでしまった人々も数多いと推測できる。
あまりにも直接的な展示はないが、拷問場所であった部屋や、多くの人々が収容(というよりは詰め込まれて虐待されていた)場所には、当時の狭い空間や鉄の鎖を留める道具、そして残されている限りの犠牲となった人々の顔写真がある。拷問や虐待の方法は実際の写真などではなく絵で図示されているが、現実にそれが行われていたと考えるだけで文字通り背中がぞっと冷えた。
皆、中を見学しながら進むにつれて言葉を失って静まりかえっていく。私たち一行だけではなく、観光客やバックパッカーと思しき人々、見学している皆そうだった。
詳しくは説明しないが拷問器具の展示
少しポルポト派の出来事について説明しよう。
約40年前、このカンボジアで権力を握った極端な共産主義の、クメール・ルージュ(共産主義の赤が象徴的なカラーなのでクメール人の赤ということで)と呼ばれるポルポト派政権が、大量の虐殺を行った。特に農業による原始共産主義を進めるために、知識階級の人たちはほとんどがこの時に犠牲になった。身なりの良い人たちや、眼鏡をかけているだけで殺害の対象になったという。若者は兵士にされて家族を殺すように命じられ、都市の人々は農村に強制的に労働者として移住させられる。
そして、おびただしい数の人々が毎日逮捕され、処刑されていった。
僕にとっては、この出来事がわずか40年前であったということがまた驚きだった。ちょうど僕の生まれた頃から幼少期の頃にそれは起きていたということで、同じくカンボジアから参加者のソピや、ダレはまさにその頃に同じように子どもの時期を過ごし、その爪痕の中で育ってきたのだ。
ソピの父方のお爺さんも村で撃たれて亡くなったそうだ。お父さんは逃れて、その後も料理が得意だったので料理人として生き残ることができたという。
見学をしながら参加者それぞれやはり思う所はいろいろあったようで、それぞれソピやダレに思ったことや質問を投げかけていた。聞いていて一つの共通するテーマは憎しみと復讐ということについての思いだった。
エリソンは「国内で多くの人が殺す側と殺される側に別れて、多くの命が失われたポルポト時代が終わった後で、市民の間に憎しみは残らなかったのか」とソピに質問していた。バングラデシュでは今でもそういう感情が残っているから、という。
同様にウェスレーもミャンマーでの70年にわたる市民戦争の結果は、怒りと復讐心が残ってしまっているといい、カンボジアの状況に違いを感じると言っていた。
ソピの考えとしては、虐殺などに加担した人たちの多くは命じられて行ったのであって、逆らえば死であり、仕方なくだったと分かっているから、それを恨むことはできないと言う。過去があまりに酷すぎたので、課題はたくさんあっても、あの時よりは良いと思えるし、安全と平和をとにかく願っていると。
また、クシはそれを聞いて、実際は明かされていないだけで、バングラデシュでもひそかに虐殺事件のようなことは起きていると思うと話をしていた。これも参加する各国のメンバーたちが「あるある」みたいな顔でうなずいていたことだった。
アジアの「闇」みたいな部分は確かにこれまでも、そして今もあるのだと思う。
いずれにせよ、ズシンと心にくる大切な博物館見学の時間だった。