《小説パウロ》第一次伝道旅行

宣教・神学・教育

『小説パウロ―キリストから世界を託された男』

十字架、それは勝利のしるしなり。
へりくだり、それは凱旋に至る道なり。
弱さ、それは力の源なり。

かつて迫害したキリストに命をささげた男パウロ。その人物像をドイツ人気放送劇作家が確かな時代考証で聖書から活写した画期的ロングセラー歴史再現小説。(「一二 第一次伝道旅行より」一部抜粋)

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第一次伝道旅行

アンティオキアに到着してから、すでに一週間以上が過ぎた。日に日にパウロは居ても立ってもいられない気持ちに駆られていた。一刻も早く伝道旅行に出かけようと、その時を今か今かと待っていたのである。新しい命に目覚めた自然界には、今年もまた最初の春の便りが届けられていた。あちらこちらで蕾がほころび始め、美しい花びらを魔法のように見事に開かせていた。そしてついにパウロ、バルナバ、マルコの三人は、見送りの仲間たちに囲まれてセレウキアの港へと向かった。
もちろん別れは誰にとってもつらいものだったが、そこには悲しみにまさる大きな喜びがあった。アンティオキア教会にとって、今回のパウロたちの旅は、何と言っても皆が一緒に関わる初めての伝道計画だった。しかしパウロとバルナバにとって何より重要なことは、この旅が思いつきや向こう見ずな計画ではないことだった。どうしてそれがわかったのだろう。今回、神の御声を聞き取るのは決して難しくはなかった。アンティオキアのクリスチャンたちは断食と祈りの末に、神ご自身がバルナバとパウロを、キリストの福音の使節として遣わすために選んでおられるとはっきり確信していたのだ。それで教会全体が、この働きに参加することが許されたのである。こうして人々は二人の上に手を置き、神の祝福を祈って送り出した。
クレネ人シモンは別れ際にもう一度、振り向くと、パウロを抱きしめてこう言った。「サウロ。あなたが戻って来る頃には、私たちはもうローマにいることだろう。もしローマに立ち寄ることがあったら、ぜひ忘れず訪ねてほしい。アリストブルを通して私たちの住所がわかるだろうから……。」

やがて太い綱がたぐり寄せられ、胴体が丸くふくらんだ貨物船が少しずつ岸を離れて行った。バルナバ、パウロ、ヨハネ・マルコの三人はゆっくりと動き出した船べりに立って、見送る人々に手を振っていた。これからの旅を前にして、三人の心がどれほど湧き立っているかが人々にも伝わってきた。
まもなくセレウキア港は、うっすらとした灰色の筋を残すのみとなった。海はとても穏やかで、聞こえるのはかすかなさざ波の音だけだった。帆をふくらませるのにちょうど良い風が吹いていた。
船首は滑るように、青々と輝く海を分けながら進んでいた。船客たちは次々と移り変わる海岸の景色に見入っていたが、やがて大海原のほかは何も見えなくなった。空は澄み切った大きな青い布を張ったように、水平線の端から端まで広がっていた。
パウロは甲板で眠ろうとしていたが、ヨハネ・マルコだけは興奮も冷め切らずにいた。何と言っても、これから向かうキプロス島は彼の生まれ故郷だった。しかし幼いうちに島を離れてしまったマルコは、島のことはもうほとんど覚えてはいなかった。ただ母親や叔父から伝え聞いていたことが、マルコの心に鮮明に残っているだけだった。次第に霧がわいて水面を漂い出した。眠くなったマルコはバルナバを探したが、叔父は乗客と夢中になって話し込んでいた。 
翌日も、三人を乗せた船は、地中海の波間を軽やかに航海を続けていた。やがて前方にはついに、奇怪な形をしたキプロス島の白い岩々が姿を現し始めた。東に向かって長く突き出した岬の海岸線は、あたかも遠く伸ばされた細長い腕のようにも見えた。島の南東、サラミスの港に着くまでは、もうそれほどかからないだろう。
マルコの心は喜びに躍っていたが、同時に不安もあった。キプロスという島のすべてに親しみを感じながら、何もかもが見知らぬもののように感じられた。マルコの故郷は想像の産物だった。しかし、今や現実を目の当たりにしようとしていたのだ。
島に降り立った三人は、南西端の首都パポスに向かって古いローマ街道を進んでいた。行く手には美と愛の女神アフロディーテの神殿が、あたかもこの島を支配していると言わんばかりに高くそびえていた。そこはエルサレムとは全く別世界だった。もちろんエルサレムにも問題はあるだろう。しかしあそこには少なくとも、すべてを見張っている神の神殿があった。それと比べると、この島にはどこにも神のための場所などないように思われた。
(ペテロは今どうしているだろう……)そんなことを考えながら、ヨハネ・マルコは向こうにいるパウロに目をやったが、その姿はペテロとは似ても似つかなかった。(あのままエルサレムにいたほうがよかったのかもしれない……)そんな思いがマルコの心をよぎっていた。
キプロスに来てからというもの、マルコはますます黙りがちになっていった。初めの喜びに満ちた興奮もいつしか冷めていた。親戚の家で温かな歓迎を受けたにもかかわらず、マルコはこの島で自分がよそ者のように思えてならなかった。こうして島の人々に対するマルコの態度は控えめになり、口数も少なくなっていた。だが島のクリスチャンたちと出会った時だけは、そんなマルコも我を忘れて話にじっと耳を傾けていた。一人ひとりに物語があった。人々はさまざまなことを経て、いつしかこの島にやって来たのだ。
キプロス出身のバルナバとその仲間がやって来たという知らせは、たちまち島中に知れ渡り、次第に彼らは島の人里離れた場所からも招かれるようにもなった。それどころか、ローマ地方総督セルギウス・パウルスも伝道者たちがやって来たことを知って、古都パポスから北西十二キロメートルほど離れたネオ・パポスの宮殿に一行を招待したのだ。
その招待の知らせを受け取ったパウロとバルナバは、とても複雑な気持ちだった。それに反して、ヨハネ・マルコはにわかに元気を取り戻していた。マルコはもう待ち切れなかったのだ。何しろローマ人の家には一度も足を踏み入れたことがなかったし、しかも高貴な貴族階級の人物から招かれたというのだ。
「セルギウス・パウルスは非常に博識だ。特に自然学の分野に詳しい」バルナバが言った。
ヨハネ・マルコも、そのローマ人への賞賛を数多く耳にしていた。「ローマのティベル川の水量を調節できたのも、あの人のおかげだそうだ。それ以来、その水は畑で利用できるようになったという話だ」マルコは声を弾ませながらつけ加えた。
「だが、あの総督が異教徒であることに変わりはない……」こう言ってパウロは顔を背けた。
「確かに気になるのは、セルギウス・パウルスのところでは、魔術師やあらゆる呪術師たちが常に歓迎されているという事実だ」バルナバもうなずいて同意した。
「でもその総督が哲学や宗教の議論を好むなら、イエスの話もしやすいのでは……?」マルコはそう提案すると、さらに続けた。「もしペテロだったら……。」
その言葉にパウロがさっと振り向いた。「ローマ人にとって、宗教は哲学や芸術と同じように単なる気晴らしにすぎない!」その激しい言葉に、バルナバは驚いたようにパウロのほうを見た。だがその心のうちで何が起きているかを知る由もなかった。

セルギウス・パウルスの宮殿は、ネオ・パポスの町全体を見渡せるなだらかな山の上にあった。そこへ向かう通り沿いには、なつめやしの街路樹と金色の神々の像が立ち並んでいた。
まもなく三人は立派な宮殿の門の前に立っていた。そこには銅製の兜をかぶった兵士たちが護衛として待機していたが、パウロたちがやって来ることを前もって聞いていたのだろう。三人の姿を目にすると、兵士たちは装飾の施された重い扉をさっと開けた。するとすぐ案内の奴隷がやって来た。
宮殿の敷地には植物が豊かに生い茂っていた。東屋のある中庭を通り抜けると、枝の間から顔をのぞかせた色鮮やかな花々が、甘い南国の香りを辺り一面に放っていた。庭の中央には白い大理石の大きな噴水池があり、中には美と愛の女神アフロディーテと思われる立派な象牙の女性像も立っていた。左右には陽射しをよけるため木陰のアーケードがあり、そこから三人は再び細長い通路を通って行った。その両側にも金で覆われた像が立ち並び、時折、横を召使たちが音もなくすっと通り過ぎて行った。
角を曲がると、高いアーチ型の窓から降り注ぐ太陽の光が、壁に飾られた大きな青銅盤にキラキラとまぶしく反射していた。パウロはそこを通り抜けながら、青銅盤に浮き彫りにされているのが、数々の戦いにおけるローマ軍の勝利の場面であることに気づいた。その通路は、言わばローマ凱旋の道だったのである。そもそも並べられた像や、制覇した戦いの戦勝記念品の数からして、この宮殿全体が巨大なローマの博物館のようだった。
ようやく広い謁見の間に案内されると、見えない手に操られるかのように大きな観音開きの扉がゆっくりと左右に開いた。部屋の至るところに、上品に着飾った男たちの姿が目についた。それらは生身の人間というよりも、むしろ端正な彫像がいくつも立っているかのようにさえ思われた。
その瞬間から、ヨハネ・マルコは絢爛豪華な光景に圧倒されて足がすくみ、前へ進むのもままならなくなっていた。あたかもローマ皇帝の「王座の間」にうっかり足を踏み入れてしまったかのようで、どう振る舞えばよいのか見当もつかなかったのだ。これまで同じような身分の仲間としかつき合いがなかったマルコは、すっかり度肝を抜かれてしまっていた。とにかく叔父の仕草をまねしようと、バルナバのそばを離れようとしなかったが、驚いたことにバルナバは全く平然としていたし、パウロもいつもと一向に変わらない様子だった。
ヨハネ・マルコは思わず、母親と暮らすエルサレムの質素な家を思い出していた。それまで自分たちは御殿のような所に住んでいると信じていたが、この宮殿と比べたらわが家などみすぼらしい掘っ立て小屋にすぎなかった。ただ肝心の総督がどの人物なのか、最初、三人とも見分けがつかなかった。広間のあまりの華やかさに、その姿は精彩を失っているかのようだった。だがその時、総督のひときわ高い声が響くと、ヨハネ・マルコは思わず身をすくめた。
目の前に現れた総督は、パウロたちを非常に丁重に迎え入れて、親しい友人たちにも紹介してくれた。その中には「ユダヤ人の教師」と呼ばれるバルイエスという名の男もいた。この男はローマ人たちの間で特に人気を集めており、自分の名に「エリマ」すなわち「賢者」という称号までつけ加えていた。またユダヤ人でありながら魔術に身を捧げるため、とっくにユダヤ教信仰も捨てていたのだ。それどころか魔術師であり、かつ心霊術の大家でもあったこの男は、自らを神の預言者であるとさえ主張していたのである。世間では、霊界と通じているエリマを通して、諸々の霊が語っているともっぱらの噂だった。この魔術師がその地位を欲しいままにしては、総督の宮殿で大きな顔をしていることは誰の目にも明らかだった。その尊大なそぶりを目にする者は、この宮殿を支配しているのが総督セルギウスではなく、実はこの魔術師ではないかと錯覚するほどだった。
パウロが話をしている間、地方総督セルギウスは注意深く耳を傾けながら時折、自ら質問もしていた。そこで語られたのは人の心の奥底にひそむ憧れ、すなわち神への憧れについてであった。救い主イエスのことを話しながら、パウロはこう言った。「セルギウス閣下。神は主イエスのうちに、私たちに対する愛を明らかに示されたのです。主イエスを信じる者は生きるのです。」
その瞬間、エリマの嘲るような高笑いがパウロの言葉をさえぎった。魔術師はその新しい教えをこけにしようと、大声でこう叫んだ。「おい! 誰がそんな子どもだましの話を信じるか! おまえさんは小娘や婆さんとなら、そんなばかげた話もできるかもしれん。だが歴戦の勇士方を前にできるような話ではないわ!」
その時、パウロは不思議な力に満たされるのを感じた。自分の声を聞きながら、あたかも誰かが自分を通して語っているかのようだった。その言葉一つひとつに、パウロ自身も心が奮い立たせられるように思われた。
「悪魔の子よ、おまえは悪巧みと悪意とに満ちている! 正義を憎み、神の道を無にしようとしている。しかしおまえの思い通りにはいかない! 主の御手がおまえを打ち、しばらくの間、盲目となって日の光を見ないであろう!」
一瞬、広間が静まり返った。しかしすぐさま、魔術師のつんざくような叫びが静寂を破った。それは怒りとおののきの悲鳴だった。見ると魔術師の顔はすっかり歪んで色を失っていた。
「こん畜生! おい! この野郎!……」わめき散らし、辺りをただうろつき回る魔術師を哀れに思った者が、とうとう広間の外へ連れ出した。大声で叫び、呪うエリマの声はいつまでも人々の耳に響いていた。

総督は表情をこわばらせてその場に座っていたが、やがて深く重い息をついた。
「あなたの神は……」総督は口を開いた。「あなたの神は……」再びはっきりと聞き取れるほど大きく息をした。「確かにあなたの神は、あの男の神よりも強い……。」
それから総督は前へ身をかがめると、かすれた声でパウロに迫るように話しかけた。
「頼む。あなたの神の話をもっと聞かせてほしい。いや、何もかも話してもらいたい。私もそのイエスを知りたいのだ。そして私も、……あなたがたのように、イエスの弟子となりたい。」……(つづく)

小説パウロ―キリストから世界を託された男
ヒルデガルト堀江 著、山形由美 訳
かつて迫害したキリストに命をささげた男パウロ。その人物像をドイツ人気放送劇作家が確かな時代考証で聖書から活写した画期的ロングセラー歴史再現小説。

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