《受難週の黙想⑤》イエスの愛に倣う
イエスの十字架への道行き:受難週
イエス・キリストがエルサレムで苦難に遭って十字架につけられ、死んで復活する直前までの1週間を「受難週」と言います。特にカトリックや東方教会では、伝統的に、この週に特別な儀式や習慣を行うなどしてイエスが受けた苦難を覚える期間としました。4月4日のイースターを前に、Word of Lifeでは3月28日(日)から毎日1課ずつ、受難週の黙想のテキストをお届けしています。イエスの受難の1週間を黙想によって心に刻み、イースターに備えてみませんか?
(黙想の初回「棕櫚(しゅろ)の主日」(3/28)はこちら)
黙想の行い方 受難週(今年は3/28〜4/3)に1日1課ずつ進められる黙想です。該当の聖書箇所を開きながら黙想のテキストを読み、出来事の場面、登場人物の気持ち、自分ならどうするかなどを、あくまで感じるままに思い巡らしましょう。無理に何かを得ようとする必要はありません。黙想の最後に、テキストの「祈り」を参考にして自分のことばでも祈ってみてください。
カラヴァッジオ「ペトロの否認」(1610年頃)(Wikimedia Commons)
イエスの愛に倣う(最後の晩餐)
最後の晩餐の対応聖書箇所
・マタイ26章17〜75節 ・マルコ14章12〜72節
・ルカ22章7〜65節 ・ヨハネ13章1〜18章27節
さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。(ヨハネ 13・1)
最後の晩餐、過越の食事の最中にイエス様は弟子たちの足を洗います。それは、愛を表し、愛を教えるためのものでした。そして、弟子たちに尋ねます。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか」(同12節)。そして、「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」(同14節)と言われ、また、新しい戒めとして、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(同34節)と教えました。
勇ましくも「たとえご一緒に死ななければならないとしても」などと口にした弟子たちでしたが、イエス様が捕らえられるや散り散りに逃げ去り、ついて行ったペテロも3度「イエスを知らない」と言う始末です。弟子たちにその教えの意味がわかったのは、十字架とよみがえりの後です。
【祈り】 こんな者のためにいのちを捨ててくださった。その愛を今日も小さな営みの中に現させてください。へりくだって他者に仕えさせてください。イエス様がしてくださったように自分を捨てて愛する者にさせてください。
松村 識 まつむら・さとる:1966年生まれ。1992年、聖書宣教会卒業。日本福音キリスト教会連合(JECA)の甲府キリスト福音教会牧師を務める。
〈「百万人の福音」2020年4月号〉
※トップの写真はレオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」(1498年)(Wikimedia Commons)
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