《受難週の黙想①》棕櫚の主日
イエスの十字架への道行き:受難週
イエス・キリストがエルサレムで苦難に遭って十字架につけられ、死んで復活する直前までの1週間を「受難週」と言います。特にカトリックや東方教会では、伝統的に、この週に特別な儀式や習慣を行うなどしてイエスが受けた苦難を覚える期間としました。4月4日のイースターを前に、Word of Lifeでは3月28日(日)から毎日1課ずつ、受難週の黙想のテキストをお届けします。イエスの受難の1週間を黙想によって心に刻み、イースターに備えてみませんか?
黙想の行い方 受難週(今年は3/28〜4/3)に1日1課ずつ進められる黙想です。該当の聖書箇所を開きながら黙想のテキストを読み、出来事の場面、登場人物の気持ち、自分ならどうするかなどを、あくまで感じるままに思い巡らしましょう。無理に何かを得ようとする必要はありません。黙想の最後に、テキストの「祈り」を参考にして自分のことばでも祈ってみてください。
棕櫚の主日(イエスのエルサレム入城)
棕櫚(しゅろ)の主日の対応聖書箇所
・マタイ21章1〜11節 ・マルコ11章1〜11節
・ルカ19章28〜44節 ・ヨハネ12章12〜19節
すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。 「ホサナ。 祝福あれ、主の御名によって来られる方に。 祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。 ホサナ、いと高き所に」(マルコ11・8〜10)
イエス様を迎える人たちの熱気! 過越の日を前に、今こそその時! イエスが立ち上がって世界を変えてくれる。期待は一気に膨らみます。そんなときの合いことばは「みんな」です。自ら責任もった決断をせずに流れに乗る。しかし、人は熱しやすく冷めやすい。流れが変わればいとも簡単に右に左に流されてしまいます。受難週、歓喜の声はやがて「十字架につけろ」と変わり、人々は流れに押し流されていきます。
「ホサナ」という叫び、それは「救い給え」という意味です。彼らが求めた救いは、自らの変革なしに外側が変わること、イエスがしてくださることだけを求める願いでした。そして、十字架に向かうイエスにはもはや力なしと流れが変わりました。
キリストを迎えることは、罪深い自分自身を悔い改め、「あなたこそ罪を贖う救い主です」と告白することです。自らを明け渡してキリストに住んでいただくことです。そのとき、内なる人が造り変えられていくのです。それがあふれて、外側の世界が変わるのです。
私がイエスを迎えた心はどうだっただろうか。何を願い、何を期待しただろうか。信じたことは確か。でも、期待し願ったようにことが運ばない。そんな現実に信仰が流されてはいないだろうか。
【祈り】 主よ、私があなたに願うことは周りのことばかりです。あれもこれも、変わることばかりを祈っています。受難週、「ホサナ」、「救い給え」とイエス様を迎えます。周りのことよりも、自分の内側、イエス様を十字架につけた罪の深さを教えてください。赦しの恵みを深く教えてください。
松村 識 まつむら・さとる:1966年生まれ。1992年、聖書宣教会卒業。日本福音キリスト教会連合(JECA)の甲府キリスト福音教会牧師を務める。
〈「百万人の福音」2020年4月号〉
※トップの写真は北マケドニアのフレスコ画「イエスのエルサレム入場」(Wikimedia Commons Photo by Petar Milošević)
受難週の黙想②「宮きよめ」へ >