写真=石原奏
《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その32
菅野基似(かんの・もとい)と申します。22歳です。ただいま、フリーター生活を始めました。というのも、ついこの間まで神学生として学んでいましたが、持病である「双極性感情障害」にやられ、学び舎から退く決断をしたばかりです。ここではそんな私のささやかな闘病記とともに、私の好きな「伝道者の書」のことばをご紹介し、ともに味わいたく思います。
それに加えて、まだ理解が進みきっていない「双極性感情障害」という病をご紹介し、少しでも誰かのお役に立てればと願っています。
第11章「精一杯生きる」その2
何もできない自分
それは私がまだ神学校に在籍していた頃、ある悩みを教会の牧師先生に相談しました。ああだこうだ言いながら、その悩みを説明しました。周りが普通にできていることが、自分にはできずにいることがつらい、と。つまるところ自分の体力と変化が著しい体調の中、学びをし続けていくことは困難だったのです。
しかし牧師先生と話しているうちに私は自分のうちにある悩みの原因に気づきます。それは「他者との比較」でした。よくよく考えてみるとその当時の悩みは、「何かができる誰か」と「何もできない自分」を比べることからくる欠乏感でした。
しかし、マタイの福音書25章14〜30節に記される「タラントのたとえ」が私を救いました。タラントとは聖書に出てくるお金の単位のことです。ここに主人が旅に出ている間、主人の財産をそれぞれ割り振られ、管理を任された三人のしもべがいました。
タラントのたとえ
五タラント、二タラントをそれぞれ主人に任された二人のしもべはその財産で各々自発的に商売をし、利益を出すことにも成功し、忠実に管理したことが後々褒められました。しかし一タラントを任されたはずのしもべはそのお金を地面に穴を掘って埋めたのです。一タラントしか預けてもらえなかったという不満がそのしもべにはあったのではないかと私は思うのです。他の二人の額との差を見て、妬む気持ちから自分自身の自信を失ってしまったのではないかと。けれども、一タラントは現在のお金でいえば六千万円ほどになると考えることができます(一タラントは六千デナリ、一デナリが一日の労賃に相当する)。決して小さな額を主人はそのしもべに任せたわけではないのです。主人はしもべを信頼して、その財産を任せている。けれども一タラントのしもべは主人の思いよりも、自分に配分された額の差に心が占められていたのではないでしょうか。
それぞれその能力に応じて
自分を見込んでくださる神様からの信頼があるのに、そんな自分を過小評価し、自信を失い、一タラントさえ生かせないでいる、それが当時の私の姿でした。
私たちは主人に軽んじられてはいません。「それぞれその能力に応じて」(マタイ25章15節)タラントは配分されているのです。すなわちそれぞれが一番良い形で賜物を生かしきれる分を神は私たちに託しておられる──。
主イエスは私たちにそのタラント、すなわち与えられた賜物や才能を生かしてほしい、と望んでおられます。そして、配分される額の大きさが問題なのではなく、人がどれだけ精一杯、忠実にそのタラントを生かしたのか、この一点だけが問われています。
しもべたちの忠実さ
五タラント生かしたしもべも、二タラント生かしたしもべも、どちらもその忠実さを主人に褒められました。しかしここで、五タラントのしもべのほうが多く褒められることはなかった。人は額の大きさに目がいきますが、主人が見ていたのはただしもべたちの忠実さのみだったからです。ゆえに、忠実だった二人のしもべは、主人が旅から帰宅した時、同様の祝福が与えられ、より多くのものを任されることになりました。一タラントのしもべはその不忠実さゆえに追い出されてしまいます。それが「タラントのたとえ」でした。
精一杯生きればいいのだ
気づけばいろいろなことを牧師先生と話していました。最後に牧師先生はこんなことを私に尋ねてきました。「基似くんは精一杯生きているでしょう?」そんな風に言ってもらえるだけで救われた気がしました。「そうだ、自分はただ神様に任された分のタラントを生かし、精一杯生きればいいのだ」──なにやら、他者と比べることによって無駄に背負っていた重たい荷物がそこで降ろされた気がしました。
伝道者も「あなたのパンを水の上に投げよ」(伝道者の書11章1節)と言います。誰かのでもなく、借りたものでもなく、背伸びするでもない。ただ「あなたのパン」を私は今日も投げて、生かしていきたいのです。(つづく)