《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その31

信仰生活

写真=芳賀真理子

《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その31


菅野基似(かんの・もとい)と申します。22歳です。ただいま、フリーター生活を始めました。というのも、ついこの間まで神学生として学んでいましたが、持病である「双極性感情障害」にやられ、学び舎から退く決断をしたばかりです。ここではそんな私のささやかな闘病記とともに、私の好きな「伝道者の書」のことばをご紹介し、ともに味わいたく思います。
それに加えて、まだ理解が進みきっていない「双極性感情障害」という病をご紹介し、少しでも誰かのお役に立てればと願っています。

第11章「精一杯生きる」その1

あなたのパン

あなたのパンを水の上に投げよ。
ずっと後の日になって、
あなたはそれを見出す。
(伝道者の書11章1節)

さて、「あなたのパンを水の上に投げよ」とは、不思議な伝道者のことばです。パンを水の上に投げれば当然ふやけて、ただのゴミになります。「ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す」(11章1節)という続きを読んでもイマイチ、ピンときません。

生きるために必要な力


──この不思議な格言。
この格言の解釈の一つに、当時の海洋貿易が行われていた背景で生まれたとするものがあります。すなわち、パンは生きていく上で欠かせない食べ物のことで、ここでは財産と言い換えてもいいでしょう。そうです。あえて、あらゆる危険を承知の上で、大切な財産を商売のために投げ出してみる。まさに水の上に。そして、一歩を踏み出すその勇気こそ「ずっと後の日になって」得られる利益のためになくてはならない商売の力であり、また、人が生きるために必要な力でもある。
──なるほど、そう考えれば不思議な格言の意味がわかってくるような気がします。

信仰の冒険

ここで、伝道者が教えたいこと。それは神を信頼し、一歩を踏み出す信仰の冒険です。自らのうちにある何かを失うかもしれないリスクを承知の上で、祝福を得るために一歩を踏み出してみよ、と伝道者は語ります。まさしく、その一歩を踏み出せるのは最善の道へといつも導いてくださる神を信頼するからに他なりません。
私にとって「あなたのパンを水の上に投げよ」とは、今を精一杯生きるということです。うつに苦しむ時、生と死を意識させられたことが幾度もありました。けれども私は、それでも生きようと思いました。しかしそれは簡単な決心ではありません。今後、同じような苦しみがやってくることや長い戦いが待ち受けていることを覚悟で、なお生きようと決心するのです。
そこには、一生の間、共にいて慰めてくださり、いつも最善の道に導いてくださる神がおられるという確信があるから、私はこのいのちを投げ捨てず、もてる力を全部注いで精一杯、神様の前に生きていこうと思えるのです。

先行きが見えない


しかし人は、なかなか先行きが見えないので、時にパンを水の上に投げることに疲れるのではないしょうか。朝起きて一日を始めること、学校に行くこと、仕事に行くこと、勉強をすること、お皿を洗うこと、聖書を読むこと、祈ること、決断すること。すべてが空しく思える時があります。しかし伝道者は見据えています。「ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す」(11章1節)と。すぐには見いだせないのかもしれません。しかし神様は私たちの精一杯のものをよく見てくださっていて、かならずその労苦に祝福を与えてくださるお方です。

風を警戒している人は種を蒔かない。
雨雲を見ている人は刈り入れをしない。
(伝道者の書11章4節)

未来にある祝福


ここに「風を警戒し」「雨雲を見て」何もしない人がいます。しかし、種を蒔かなければ何も育たないし、天気を気にしてばかりいたら、大切な農作物はいつまで経っても収穫できません。海洋貿易では、パンを水の上に投げない限り、利益は見込めませんでした──。まさにここにあるのは信仰の冒険です。先行きが不透明であるから何もしないのではなく、未来がわからないからこそ、今パンを投げて、一歩を踏み出していく冒険へと伝道者は私たちを誘なっています。
それは与えられたこの束の間の人生を決して無駄に過ごさず、「すべて神の栄光を現す」(Ⅰコリント10章31節)という試金石の上で、私たちが、今この時にしか果たすことのできない何らかの責任があるからです。未来にある祝福にたどり着くためには、現在の歩みをないがしろにしてはいけない。理想の日が来るのを待たず、今を精一杯、賢く生きよ!これこそ伝道者が言いたいことではないかと思うのです。(つづく)

 

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