《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その29

信仰生活

イラスト=ミウラデザイン

《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その29


菅野基似(かんの・もとい)と申します。22歳です。ただいま、フリーター生活を始めました。というのも、ついこの間まで神学生として学んでいましたが、持病である「双極性感情障害」にやられ、学び舎から退く決断をしたばかりです。ここではそんな私のささやかな闘病記とともに、私の好きな「伝道者の書」のことばをご紹介し、ともに味わいたく思います。
それに加えて、まだ理解が進みきっていない「双極性感情障害」という病をご紹介し、少しでも誰かのお役に立てればと願っています。

第10章「小さな死んだハエ」その2

スポンサーリンク

心の中にうごめく“なにか”


私の心の中にうごめく“なにか”がある気がしています。破壊し、盗み、奪い、傷つける。そういう悪が私の心にはあるのだと思います。私を腐らせる根源ともいうべきものがある気がしています。

まことに 私は自分の背きを知っています。
私の罪は いつも私の目の前にあります。
(詩篇51篇3節)

これは、姦淫の罪を犯したダビデが悔い改めた時の有名な告白です。
ダビデが言った「自分の背き」は、原語では複数形で書かれているそうなのです。ダビデは自分の罪を広い視野の中で見ていました。
たとえば、美しいバテ・シェバが水浴びしているのを見て、自分のもとに招き入れました。これは姦淫の罪。続けてバテ・シェバの夫ウリヤを騙してうまく姦淫の罪を隠そうとしました。これはみにくい偽証です。その嘘をもってしてもごまかし切れそうになかったのでダビデはウリヤを戦場へ送り、殺しました。殺人の罪です。その後、何事もなかったかのようにダビデはバテ・シェバを自分の妻とし、見事に他人の妻を盗んでしまったのです。

十戒が泣いている


十戒が泣いています──。「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽りの証言をしてはならない」「隣人の妻を欲してはならない」一気にぜんぶダビデは破ってみせたのです。
決して、ひとつの事件のなかでひとつの罪ではなく、ひとつの事件のなかで神の前に何重もの罪を重ね、積み上げていたのです。ゆえの複数形です(注1)。
私は、この聖書が語る罪の理解を知った時、愕然としたことを覚えています。それまでの私は、罪人だとは言われても、あまり実感がなかったのです。罪深さや、罪の大きさというものをよくわからないでいました。しかし気づけば誰にも教わったわけでもないのに小さな嘘をつくことを覚えていた私──。その小さな嘘は「偽りの証言」を禁ずる十戒の第九戒に違反し、大抵そういう嘘は友だちや兄妹に悪口を言ったり、暴力を行ったりすることを隠すためにつくものでした。少しの愚かさは次々に十戒を破っていく性質があります。

義人はいない


そう、私の心の中にうごめいていたものはまぎれもなく恐ろしい「罪」でした。「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3章10節)と聖書は言います。私は間違いなく罪をもって生まれた罪人なのです。
この罪の現実になかなか私たちは気づくことができないもの。いつまでも自分は大丈夫だし、そんな大きな犯罪など犯すことなどないから平気だと思う人が多くいると思います。

自分の罪の大きさ


私の人生を振り返ると、自分の罪の大きさに気づくまでにとても時間がかかったことを思います。牧師の家庭に生まれ育った私ですが、自分自身の罪というものにイマイチ、ピンとこないでいました。
私は思います。人が自分の罪の重さをきちんと理解すれば、それだけ救いの喜びにあふれるだろうと。というのも、私の好きな英国の説教者ロイドジョンズはクリスチャンではあるけれども、喜びを失ってしまったクリスチャンが存在することを指摘します。そんなクリスチャンの問題点は「自分の罪を十分に認識せず、それを心から悲しんだことがない点にある」(注2)とロイドジョンズは考えるのです。
喜びにあふれるために、一度悲しまなければならない──。いっけん矛盾とも思えます。
しかし、自分が失われた者であることを知らないでどうして救いがわかるのでしょうか。罪のゆえに、生きているようだけれども、実は自分が霊的に死んでいる悲しい事実を知ることなしに、福音の魅力を十分に理解することは困難だと思います。
私に足らなかったのは、まさにその点でした。(つづく)

*注1『神の喜ぶささげもの─詩篇51篇講解─』鞭木由行 いのちのことば社
*注2『霊的スランプ』D・M・ロイドジョンズ いのちのことば社

 

< 前へ次へ >