《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その27

信仰生活

写真=新井真拓

《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その27


菅野基似(かんの・もとい)と申します。22歳です。ただいま、フリーター生活を始めました。というのも、ついこの間まで神学生として学んでいましたが、持病である「双極性感情障害」にやられ、学び舎から退く決断をしたばかりです。ここではそんな私のささやかな闘病記とともに、私の好きな「伝道者の書」のことばをご紹介し、ともに味わいたく思います。
それに加えて、まだ理解が進みきっていない「双極性感情障害」という病をご紹介し、少しでも誰かのお役に立てればと願っています。

第9章「生きる者の希望」その3

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つらすぎる人生の現実


私たちはつらすぎる人生の現実に疲れてしまうことがあるでしょう。しかし伝道者の書9章には生きる者にとって変わることのない確かな希望が書かれているのです。

すべて生きている者に連なっている者には希望がある。生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。 (伝道者の書9章4節[新改訳第三版])

「生きている犬は死んだ獅子にまさる」──これは一つの格言です。ライオンと犬を比べれば、犬にできることなんて百獣の王の前では、怯えながら小さく吠えることくらいです。また犬は聖書では惨めさの象徴で、ライオンは百獣の王です。しかし伝道者は言います。生きている犬は死んだライオンにまさっている、と。ここで犬とライオンが並べられた時、なんと犬が勝利をおさめました。その犬の勝因はいかに──。まさしく、「生きていること」だったのです。

「学びたい」という思い

今から3年前の話です。家族は青森にいて、父は青森の教会で牧師として仕えていました。関東の神学校で学んでいた私でしたが休学をしたり、入院を経験してもなお「学びたい」という思いは固く、変わることがありませんでした。しかし体の具合からいって神学校の寮生活はどうしても無理でした。そんな時、家族は動いてくれました。青森での牧会を辞任し、私が神学校に通学で通えるように、関東に移り住むという大きな決断をしたのです。青森の教会の方々には何と謝り、また感謝を述べたらよいか今でもわかりません。父はさまざまな責任がある牧師を辞めた後、関東に越して1年間、家計を支えるためにアルバイトをしてくれました。
それから私は家族に支えられ、新たな自宅から通学し、学びに励むことができました。本当に家族には感謝し尽くせません──。それから、関東に越して1年が過ぎようとした頃にある教会から招聘していただき、父はもういちど牧師としてご奉仕を始めたのでした。

神の摂理に導かれて


それから少し経った頃、父がその教会の牧師としてのつとめを始めるにあたって、あるエピソードがあったことを知り、私は涙を流したことがありました。
当時、教会としても複雑な事情がある私たち家族を本当に受け入れてよいのだろうかとよく考えてくださったそうです。特に、中でも特殊な事情を作り出したこの私のことが話題になったそうです。そしてどうやら信徒の方々の間で、私の患う双極性感情障害がどんな病なのか、説明が求められたそうなのです。その時です。とある信徒の方が立ち上がり、双極性感情障害を自身の経験も踏まえ、説明して、そして私を擁護してくださった。それが、教会が私たち家族を新しく受け入れることができたひとつの要因となった、そういう話を聞きました。
聞けば、その信徒の方、ご自身も同じ病と格闘して生きてこられた──。
あらゆる人の痛みさえ、すべては神様の御手の中にあります。「すべてのことがともに働いて益となる」(ローマ8章28節)、また「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3章11節)と神の摂理を改めて肌で感じたのでした。

生きる者の希望


「すべて生きている者に連なっている者には希望がある」(伝道者の書9章4節[新改訳第三版])と生きる者の希望を語る伝道者がいます。伝道者はここで生きているからこそ出会える幸いを強調しています。死はすべてを無としますが、生きることには無限の可能性が秘められています。人はこの生涯を心ゆくまで楽しんでよい。神がその生涯を祝福なさるからです。
「生きていてよかった」と思う私がいます。改めてこの人生これまでもよかったし、またこれからも幸いだ、と。苦しみが私の人生を豊かにし、神が引き起こす奇蹟の連続の中を私は歩いてこれました。
だから私はこれからもこの道を神様と共に歩んでいきたいのです。「生きよ」との伝道者のことばが今日も響いています。

 

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