《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その25

信仰生活

写真=石川泉

《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その25


菅野基似(かんの・もとい)と申します。22歳です。ただいま、フリーター生活を始めました。というのも、ついこの間まで神学生として学んでいましたが、持病である「双極性感情障害」にやられ、学び舎から退く決断をしたばかりです。ここではそんな私のささやかな闘病記とともに、私の好きな「伝道者の書」のことばをご紹介し、ともに味わいたく思います。
それに加えて、まだ理解が進みきっていない「双極性感情障害」という病をご紹介し、少しでも誰かのお役に立てればと願っています。

第9章「生きる者の希望」その1

同じ結末

日の下で行われることすべてのうちで最も悪いことは、同じ結末がすべての人に臨むということ。そのうえ、人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり、その後で死人のところに行くということだ。(伝道者の書9章3節)

伝道者の書9章は、冒頭からすべての人に平等におとずれる死というテーマを取り扱っています。どんなに社会的地位が高い人でもそうではない人にも、実績がある人にもない人にも、若くても年老いていても、すべての人に死はやってきます。
とてもつらい現実だと思います。伝道者はすべての読者を死の現実の下に閉じ込めるのです。
改めて伝道者の書を読み返す時に、伝道者が幾度となくこの「死」のテーマを大切にしてきたことが伺えます。生きていても罪人には「心に狂気」がある。その後、人間は恐ろしい死の世界に行く。それが伝道者の記す悲しい現実でした。

死の意識


私はときどき死を意識する時があります。そんな時、死とはすべてを無にしていくことに気づきます。自分がこれまで辿ってきたものがすべて死によって無となっていくことを考える時、やはり空しさを覚えます。そうなるとそこにあるのは生きることへの絶望でした。
しかし同時に私は思うのです。死を見つめるからこそ、生への情熱がわくのではないか、と。死を間近にした時、生まれるのは本当に恐ろしさだけでしょうか。

困っている人を救いたい


私の父はもともと東京消防庁のレスキュー隊員として働いていました。「困っている人を救いたい」それが父の願いでした。けれどもレスキュー隊が出動する現場というのは、悲惨で助けようがない現場ばかりだったと父はこぼします。消火し終えた後の火災現場からは焼死体が発見され、高速道路で起きる事故では原型をとどめないほどに痛んだ遺体を目にすることになります。「誰も救えない」それが悲しくも父に突きつけられた現実でした。
けれども、そうした死の現実から、自分にはもっと違う生き方がある、と父は思うようになったそうです。その後、父は神様からの呼びかけに従い、困っている人を助けるレスキュー隊員から、失われたたましいに福音を伝える牧師となりました。

私たちの生を奮い立たせる


ここにきて伝道者は一つのことを私たちに気づかせます。死の現実がかえって私たちの生を奮い立たせる。そして、生きるか、死ぬかを選べと言われた時、生きることを選ぶことの方が断然私たちに将来があるということです。

さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、
陽気にあなたのぶどう酒を飲め。
神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。
いつもあなたは白い衣を着よ。
頭には油を絶やしてはならない。
あなたの空しい人生の間、
あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。
彼女は、あなたの空しい日々の間、
日の下であなたに与えられた者だ。
それが、生きている間に、
日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。
あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、
自分の力でそれをせよ。
あなたが行こうとしているよみには、
わざも道理も知識も知恵もないからだ。

(伝道者の書9章7節~10節)

人生の積極的な事実


なんと明るくて、そして活力みなぎる聖書のことばでしょうか。これが生き続ける者に与えられる人生の積極的な事実なのです。これこそ幸いな人生です。
人生を楽しむこと、これ決して間違っていません。パンとぶどう酒、そして神が私たちを喜んでいること、さらに喜びを象徴する白い衣と油。極めつけは生涯のパートナーとの出会い。最後には人生にチャレンジせよとの勧め。どれもこれも生きているからこその幸いな人生の過ごし方です。
生きて、前を向き、楽しめ! 伝道者は生きる喜びを、みなぎることばと共に証しています。(つづく)

 

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