《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その24

信仰生活

写真=奥山仰輝

《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その24


菅野基似(かんの・もとい)と申します。22歳です。ただいま、フリーター生活を始めました。というのも、ついこの間まで神学生として学んでいましたが、持病である「双極性感情障害」にやられ、学び舎から退く決断をしたばかりです。ここではそんな私のささやかな闘病記とともに、私の好きな「伝道者の書」のことばをご紹介し、ともに味わいたく思います。
それに加えて、まだ理解が進みきっていない「双極性感情障害」という病をご紹介し、少しでも誰かのお役に立てればと願っています。

第8章「私の顔の救い」その3

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今に至るまで苦労


さて、私は病気を患ってから今に至るまで苦労が続いています。しかし、そういうことをY.M.さんに話せたことはやはり大きなことでした。苦しいところを通っても、今や理解してくれる存在がいるのです。
頑なだった心が神の愛によって溶かされ、私はずいぶんと柔らかくなりました。気づけば私は喜びながら学校の友だちにイエス様のことを伝えて、そしてそれが守られたことを無邪気にY.M.さんに報告したのです。するとその光景を見ていた別の女の子に「基似がそんな顔をするなんて思わなかった」と驚かれました。

悩みながら生きている


クリスチャンは顔を見ればわかります。もちろんクリスチャンも悩みながら生きている。しかし、その顔のどこかに希望が見受けられる。それは神に愛されている喜びからくる、どっしりとした人生観が据えられているからです。
Y.M.さんが無言で教えてくれたのは、あきらめずに私を待っていてくださる神の愛でした。その愛を知って、私は失っていた自分を徐々に取り戻し始めたのです。少しずつ、少しずつ、凝り固まった顔に表情ができて、赤みが出てきました。そんな私の顔を見て驚いた女の子がいたのです。──まさしく、「人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる」(伝道者の書8章1節)です。

私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき、
すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。
(伝道者の書8章16節~17節)

痛々しい世の中の現実


それにしても私たちの顔は痛々しい世の中の現実のためにすぐに表情は曇ります。私たちはこの地上を生きている以上、人生の中で苦しみを経験します。さまざまな問題に私たちは答えを探します。しかし伝道者は「私たちにはすべてはわからない」とはっきりと語るのです。──「隠されていることは、私たちの神、主のものである。」(申命記29章29節)とあるように──。
私は信仰者として「すべてを知っていなければならない」と思っていました。けれども考えてもみれば、今も私たちが知っている神様は氷山の一角に過ぎません。だからといって、私たちが信仰者として失格なのではありません。
わからないことも信仰の一部だと思います。必ずしも、何かがわかることだけが信仰なのではありません。わからないからこそ、わからないことを悩みながら神様の御手に委ねていく時、そこにあるのは信仰なのではないでしょうか。

謎多き私たちの人生


さて、わからないことがあり、謎多き私たちの人生──。しかし不思議なことにそんな中にあっても「平安」でいられる時があります。状況が良い時だけではなく、むしろ悪い状況や苦難の最中においてなお、平安でいられることがある。これもまた人生の謎です。
もしかすればそれは状況や環境に左右されるのではなく、私たちの髪の毛さえ、すべて数えておられるほどに私たちを守り(マタイ10章30節)、すべてのことを働かせて益としてくださる(ローマ8章28節)神様がおられるという確かな慰めがあるからではないでしょうか。
もちろん揺れる時はある。けれども、この世界のどこを見ても神の作品ではない部分は一ミリもなく、神の手の届かないところなど何一つないと私は信じています。
──そうした慰めが私を救いました。

空を見上げて


そうして慰められた心の平安がしっかりと顔に映るのです。そして、きっと私たちは言われます。「君がそんな顔をするなんて思わなかったよ」と。
この戦いの多い旅路の中で、なおも空(そら)を見上げて、どこか希望を見つめている。そんな救われた顔で歩いていこうと、私は前を向きます。

 

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