写真=水梨郁河
《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その23
菅野基似(かんの・もとい)と申します。22歳です。ただいま、フリーター生活を始めました。というのも、ついこの間まで神学生として学んでいましたが、持病である「双極性感情障害」にやられ、学び舎から退く決断をしたばかりです。ここではそんな私のささやかな闘病記とともに、私の好きな「伝道者の書」のことばをご紹介し、ともに味わいたく思います。
それに加えて、まだ理解が進みきっていない「双極性感情障害」という病をご紹介し、少しでも誰かのお役に立てればと願っています。
第8章「私の顔の救い」その2
険しく戦いの多い道のり
私はY.M.さんともう一人、今でも兄のように慕うF.M.くんに付き添われて、都内某所にあったカウンセリングルームに足を運びました。それから神様の守りの中で、今日まで6年あまりお世話になっている心療内科にまで辿り着くことになります。
けれども、それはゴールではなく、険しく戦いの多い道のりに足を踏み入れた、いわばスタートでした。
癒やしにとって大切なもの
まず、双極性感情障害だと診断された時、複雑な思いでした。また薬を飲み始めるようになると、太ったり、お腹を壊したり、尋常じゃない眠気がやってくるなど、日常生活に支障をきたすようになります。けれども、そのプロセスは癒やしにとって大切なものでした。
癒やしに向かうために走り出すことには、それに伴う苦悩もある──。ですから、助けを求めるとは勇気ある行動だと思うのです。
そんな私は自分を詩篇73篇にあるアサフの嘆きによく重ねました。アサフは「しかし 私にとって/神のみそばにいることが 幸せです」(詩篇73篇28節)のように神様と出会っていきますが、伝道者の書8章にも似たようなことばがあります。
あなたの赦しを、私に与えてください
悪を百回行っても、
罪人は長生きしている。
しかし私は、神を恐れる者が
神の御前で恐れ、
幸せであることを知っている。(伝道者の書8章12節)
ここで、ひとつの物語を紹介します。
ナチス・ドイツにより、強制収容所で数え切れない人々が迫害され、殺されました。戦後、そんな強制収容所から命からがら出ることができたある夫人が、教会での説教の奉仕をし終えた時でした。一人の男性が笑顔で近づいてくるのです。
──「あなたのお話が聞けて、とても感謝しています」と。まさしくその男性は強制収容所の関係者でした。自分たちを迫害し、愛する人を彼らは殺したのです。怒りが湧き上がり、夫人は復讐心で満たされました。
けれども夫人は祈ります。「どうか、あなたの赦しを、私に与えてください」──そうして奇蹟が起こります。
「彼の手を取った時、とても信じられないことが起こりました。私の肩から腕、それから手先にかけて、電流が走り、彼に伝わっていくように思えたのです。私の心の中には、この見知らぬ人への愛があふれ、思わず、圧倒されそうになりました。」
(『わたしの隠れ場』コーリー・テン・ブーム著、いのちのことば社)
襲ってくる不条理
なぜ正しい者が顔を曇らせながら痛む思いをしなければならないのか。悪い者は悪いことをして勝手に滅んでいればいいのに、と思うものです。しかしそうはいかないもの。この地上で生きるかぎり、不条理が私たちを襲ってくるのです。
そして、まわりを見渡せば、魅力的なものが私たちを神から離そうとしています。神の前に忠実であろうとすればするだけ、自分の生き方が苦しく感じるものです。けれども、「しかし私は、神を恐れる者が神の御前で恐れ、幸せであることを知っている」(伝道者の書8章12節)──そう、「知っている」のです。「だと思う」とか「そうだろう」ではなく、「知っている」。
地の深みは御手のうちにあり
そう、私たちは神を恐れて生きることの幸いを知っているはずです。理屈ではない。ただこれまで経験して、知っているのです。苦しみのどん底に落ちるところまで落ちて終わりなのではありません。「地の深みは御手のうちにあり」(詩篇95篇4節)──つまり、神はどこにでもおられ、さらに「地の深みから 再び引き上げてくださいます」(詩篇71篇20節)──すなわち苦しみの果てに主の救いがある。
あの夫人が極限状態の果てに神の愛にあふれることができたように、私たちのことも同じようにちゃんと神様は救ってくださる。それは今までも、これからも。そのことを私たちは知っているはずです。だからこそ私は、この人生の中で、神の愛が起こす奇蹟の連続の中をしっかりと生きていきたいのです。(つづく)