《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その21

信仰生活

イラスト=ミウラデザイン(ペンネーム)

《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その21


菅野基似(かんの・もとい)と申します。22歳です。ただいま、フリーター生活を始めました。というのも、ついこの間まで神学生として学んでいましたが、持病である「双極性感情障害」にやられ、学び舎から退く決断をしたばかりです。ここではそんな私のささやかな闘病記とともに、私の好きな「伝道者の書」のことばをご紹介し、ともに味わいたく思います。
それに加えて、まだ理解が進みきっていない「双極性感情障害」という病をご紹介し、少しでも誰かのお役に立てればと願っています。

第7章「心は晴れる」その3

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拭えない悲しみ


「拭えない悲しみ」──しかし、それでいいのだよ、と伝道者は言いたげです。

悲しみは笑いにまさる。
顔が曇ると心は良くなる。
(伝道者の書7章3節)

改めてこの聖書のことばと向き合う時、伝道者が悲しみをもみ消そうとしないことに気づきます。「それでいい。そのままにしておけ」と言わんばかりです。
悲しむことはよいことなのです。なぜでしょう。同じ箇所を聖書協会共同訳で読んでみます。

悩みは笑いにまさる

悩みは笑いにまさる。
顔が曇っても、心は晴れるのだから。
(コヘレトの言葉7章3節、聖書協会共同訳)

私たちの心に大きな雲が取り巻くことがあるでしょう。太陽の光は遮られ、どんよりとした空の下、悶々とした空気に、体も気持ちも下向きになることがあるでしょう。そんな時、私たちは自分自身を見つめるべきです。自分自身の心にはかならず悲しみが横たわっていますが、時に私たちはその悲しみを隠し、笑うことがあります。その笑いこそ伝道者が嫌う笑いです。悲しみをなかったかのようにする笑いこそ人を破滅させます。

悲しみを悲しみとする


悲しみを悲しみとする時、人は自分自身を知ることができます。そして人は成長していきます。なぜその時、人の心は良くなり、晴れていくのでしょうか。それはきちんと自分自身を省み、知ろうとするからです。

顔が曇る


「顔が曇る」──これはなぜでしょうか。それは自分を見つめるからです。自分を見つめれば、自分の至らなさや弱さが見えてくるでしょう。しかし、そんな悲しみをちゃんと見つめてあげるのです。「あぁ、そこにいるのか」と。
そうやって自分の心を知ろうとするから、人は顔を曇らせます。
しかし、そのように、自分を省みる人こそ顔を曇らせますが、自分の至らなさと向き合うから心は良くなって、成長して、晴れていくのです。これは自分の心の悲しみと向き合い続ける人の特権なのです。

違和感の正体


私はある時、近くの郵便局まで用事がありました。いつものように自転車に乗って郵便局まで向かおうとしましたが、あいにく、自転車がパンクしていました。げんなりしつつ、仕方がないので歩いて郵便局まで向かいました。好きな音楽を聴きながら郵便局まで歩き、そして帰宅しました。
でも私は行きの道も帰りの道でも何かの違和感を感じていました。その違和感の正体は後になってわかりました。
──それは自転車で郵便局まで向かうルートと歩いて向かうルートには違いがあったということです。
自転車では基本的に平坦な道しか進めません──。けれども歩きだと凸凹道や階段も使えるのです。確かに時間的には自転車の方が早い。でも、歩きだと凸凹道も階段も使える。つまり、歩けば歩く分だけ足腰は鍛えられるのです。

私の人生の旅


私の人生の旅にはいつも凸凹道や長い階段、そして遠回りをさせられる出来事が重なっています。正直、しんどい。けれども、こうして文章を書けることも、誰かの痛みに共感できることも、遠回りをしたからこそ神様からいただいた、私のもち味だと思っています。私の霊的な足腰はだいぶ鍛えられました。悲しみによってです。

私が弱いときにこそ、私は強い


「私が弱いときにこそ、私は強いからです」(Ⅱコリント12章10節)──悲しみをきちんと悲しみ、弱さにきちんと弱くなる時に私たちの心に天からの光が差し込んできます。悲しみを埋めて、弱さを強がっている間はきっと神様は何もしません。ただ、自分のありのままの心を神様にお委ねしていく時、私たちの心の雲は消えていき、心は晴れるのです。

悲しんで、良い


悲しんで、良いのです。向き合って、良いのです。やがて心の奥底から悲しみを経た真実な喜びが生まれるから──。私は、笑うなら真実に笑いたいのです。

 

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