写真=菅野綾
《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その17
菅野基似(かんの・もとい)と申します。22歳です。ただいま、フリーター生活を始めました。というのも、ついこの間まで神学生として学んでいましたが、持病である「双極性感情障害」にやられ、学び舎から退く決断をしたばかりです。ここではそんな私のささやかな闘病記とともに、私の好きな「伝道者の書」のことばをご紹介し、ともに味わいたく思います。
それに加えて、まだ理解が進みきっていない「双極性感情障害」という病をご紹介し、少しでも誰かのお役に立てればと願っています。
第6章「感動に似た畏れ」その2
残された道
しかし、私たちの人生にはまだひとつの道が残されています。それをどうにか確認したいのです。
伝道者の書6章はこのような問いを残して締めくくりました。
だれが知るだろうか。
影のように過ごす、空しい人生において、
何が人のために良いことなのかを。
だれが人に告げることができるだろうか。
その人の後に、日の下で何が起こるかを。
(伝道者の書6章12節)
何が人を満足させ、何が人を心から喜ばせ、何が人を真に生かすのか、それを知っているのはだれか。それはいったいどこにあって、どこから得ることができるのか。何がまことの意味で人の人生の土台となるのか。それはいったいなんなのか、そしてそれを知っているのはだれか、と伝道者は問いを出します。
伝道者は究極的に人の短く束の間の人生において、その場限りで終わるものではなく、永遠に続く富を探しています。
私たちの存在は霧に等しい
ここで新約聖書のヤコブの手紙を読みたいと思います。
あなたがたには、明日のことは分かりません。
あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。
あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。
(ヤコブの手紙4章14節)
どれだけこの地上で富をもうけて、子どもに恵まれ、長寿を得ても、私たちの存在は霧に等しい。そのようにヤコブは語ります。自分に過信して、我が物顔で生きている人がいます。けれども、そういう人の明日はわかりません。その人のいのちとは、どのようなものでしょうか。その人は、「しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です」(ヤコブ4章14節)。
そういうことがわからず、その空しさから目を背けて、耳を塞いで生きている人が大勢います。
確かな基盤と、まことの喜び
しかし、伝道者はその空しさを逃さず、6章12節に二つの疑問文を残したのです。
「だれが知るだろうか?」「だれが人に告げることができるだろうか?」
つまるところ、あなたの生き方のどこに確かな基盤と、まことの喜びがありますか。そう、伝道者は言いたげです。それが残された問いです。伝道者は決して空しさを逃しません。そして問い詰め続けるのです。なんだかあやふやになっている人の生き方と人生を問いただすのです。旧約聖書のハガイ書で神は預言者ハガイを通してこう言われました。
あなたがたの歩みをよく考えよ。
(ハガイ書1章5節)
本当に必要なものは何か
今、君たちに本当に必要なものは何か、本当に大切にすべきことは何か省みてよく考えてご覧なさい、と神様は私たちに語りかけます。ハガイ書の場合は宮の再建でした。「伝道者の書」は私たちの心の再建を促します。私たちがいちばん見落とし、いちばん取りこぼすことは自分の心を守り、保ち、成長させることです。また、それに気づいても、人は多くの場合それを誤り、間違った方向に進みがちです。だからこそ、伝道者は答えの出ない問いを残したのです。
伝道者が残した問いは深遠です。味わえば味わうほど、時間をかければかけるほどこの問いにすぐに答えることのできない自分に直面することになります。何が自分たちの生き方に必要で、何が自分たちを満足させ、そして健康な心にするのか。
八方塞がり
楽しければいい。お酒やたばこでしょうか。彼氏、彼女を作ることでしょうか。綿密な計画のもとに大事業を行うことでしょうか。ふむふむ、何かが違う……。きっと「伝道者の書」をここまで読んでいればそのように思うのは当然だと思います。
ここで伝道者は面白いことをします。答えられない残された問いは私たちの思考を停止させました。どう考えても、どこに向かっても、あれも違う、これも違う。そう、伝道者がここで私たちに経験させているのは八方塞がりです。(つづく)