《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その14

信仰生活

写真=藤田牧人

《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その14


菅野基似(かんの・もとい)と申します。22歳です。ただいま、フリーター生活を始めました。というのも、ついこの間まで神学生として学んでいましたが、持病である「双極性感情障害」にやられ、学び舎から退く決断をしたばかりです。ここではそんな私のささやかな闘病記とともに、私の好きな「伝道者の書」のことばをご紹介し、ともに味わいたく思います。
それに加えて、まだ理解が進みきっていない「双極性感情障害」という病をご紹介し、少しでも誰かのお役に立てればと願っています。

第5章「くよくよ思わない」その2

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時になにもかもがわからなくなる


時になにもかもがわからなくなる。──そういう信仰の季節を歩む時がかならずあるでしょう。うまくいかずに悩むこと。そして自らに起こる病気や失恋の哀しみ。また、愛する人の突然の死に対する激しい落胆もあります。「なぜ、こんなことが」と人は時折、つぶやきます。
人は哀しみに戸惑います。しかし、すべてをご存知の神様は天におられます。

絶え間ない礼拝

すると見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。(ヨハネの黙示録4章2節)

今も、天では絶え間ない礼拝がささげられています。
なんだ、神は座っているだけなのか──。そうではない。むしろ人生の嵐に翻弄されて神を見失ってしまう私たちにとって、神が天の御座に着いているという事実は慰めです。今も神は不動で変わらないのです。信仰をもっているからわからなくなり、落ち込んでしまうことがあります。しかし、そんなときこそ、私たちは天を見上げたいのです。

天を見つめ続ける


あの大きな雲がなかなか動かないときがあるでしょう。いつまでも動かず、消えず、停滞していると思われます。でも空には風があります。風は目には見えません。しかし、存在しています。雲が動かないように見えるのは、ただ雲が大きくて面積が広いだけのこと。しかし、そこに風は存在して、着実に、少しずつその大きな雲を動かしています。やがてふと天を見上げると太陽の温かい日差しが差していることに私たちは気づいて感動することがあります。信仰とはその風があることを信じ、祈り、天を見つめ続けることです。

人は裸のまま戻って行く

母の胎から出て来たときのように、
裸で、来たときの姿で戻って行く。
自分の労苦によって得る、
自分の自由にすることのできるものを、
何一つ持って行くことはない。
(伝道者の書5章15節)

人は裸のまま戻って行く。──ここにも空しさが漂います。私たちがどれだけこの地で富を得ようが、その富は死んだらなんの力にもならない、というのです。

神から与えられたもの


しかし、だからといって神は禁欲主義に走るようにとは言いません。人はそういう空しさをわきまえながら生きるときに気づけることがあります。それは神が人に与える賜物の存在です。良き食べ物、良き読書、良き家族、良き友、良き団欒、良き仕事、良き礼拝。こういうたぐいのものが存在していることに人は気づいていきます。伝道者は素直に神から与えられたものを楽しむことを勧めます。自分の努力や功績によって勝ち取ったものは廃れ、錆びていくでしょう。しかし、神が与えてくださる賜物を楽しむことこそ、私たちにとっての幸いなのです。

労苦を喜ぶようにされた

見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととは、こうだ。神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。
実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。
(伝道者の書5章18節〜19節)

私には趣味があります。それは歌手のさだまさしの曲を聴くことです。懐かしの名曲が好きな私です。私とさだまさしの出会いは双極性感情障害のために二度目の入院をしたときでした。
入院をした病棟でひとり何もすることがなくて孤独だった時、母の勧めもあって、スマートフォンを取り出し、初めて聴いた曲が「道化師のソネット」でした。
初めて聴いた曲なのに、その歌詞とメロディーに涙したことを覚えています。そして気になってその曲が作られた背景も調べました。その背景を知り、また涙。そんな経験を入院中にしました。(つづく)

 

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