写真=奥山仰輝
《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その12
菅野基似(かんの・もとい)と申します。22歳です。ただいま、フリーター生活を始めました。というのも、ついこの間まで神学生として学んでいましたが、持病である「双極性感情障害」にやられ、学び舎から退く決断をしたばかりです。ここではそんな私のささやかな闘病記とともに、私の好きな「伝道者の書」のことばをご紹介し、ともに味わいたく思います。
それに加えて、まだ理解が進みきっていない「双極性感情障害」という病をご紹介し、少しでも誰かのお役に立てればと願っています。
第4章「私の戦友」その3
信仰の友
私にはたくさんの信仰の友がいます。多くはバイブルキャンプ場や、そして高校時代に出会ったhi-b.a.(高校生聖書伝道協会)での出会いでした。神様からの大きなプレゼントです。そんな信仰の友との出会いが私の人生を大きく変えました。今もよく振り返ることですが、文字通り命を救われた経験をしたことをよく覚えています。
苦しみの中で
それは私が高校3年生のある晩、家に帰ろうと電車に乗っている時に突然大粒の涙があふれ出て、止まらなくなりました。情緒が不安定になり、死にたくなりました。今振り返ると、私はその時、双極性感情障害の躁状態とうつ状態がミックスした混合状態に陥っていたのだと思います。混合状態とは非常に危険な状態です。
駅のホームに佇み、あふれ出る涙を拭いながら、電車に飛び込もうとしました。そんな苦しみの中でふとある友人の顔が浮かんできたのです。気づけば携帯を取り出してその友人に電話をかけていました。繋がりました。涙が止まらない中、今自分の身に起こったことをなんとか説明したのだと思います。ほとんど記憶がありませんが、それでも自分の口でこんなことを言ったことを覚えています。
なにも悪くない!
「こんなことになったのも全部、自分のせいだよね。僕が全部悪い」
すると、友人は声を張り上げました。
「絶対にそんなことはない!基似くんはなにも悪くない!」
私はその一言で救われたのでした。あの時の私は自分を見失っていました。何かに傷ついていたのです。ただ彼がかけてくれたことばは私を救いました。「そうか、そうか。この涙は病気の涙なのだ」と。
心の整理
どうして友人の一言が私を救ったかと言えば、つまるところ病気の症状によって落ち込むことと、自分の信仰の課題によって落ち込むこととを混ぜて考えてしまうことがありました。それに苦しんだことをよく覚えています。
病気のうつ状態によって心の元気が落ちているだけなのに、あたかも自分が不信仰で失格者だから、不幸になっていると勘違いしていたのです。しかし、あの時の彼の一言はその概念を打ち壊しました。「そうか、そうか。この落ち込みは病気のせいであって、決して自分のせいではない」と。そうやって心の整理をしてくれて、命を護ってくれた友人が私にはいます。
三つ撚りの糸
私は今、ひとりぼっちではありません。仲間がいて、祈ってくれる友がいます。また、信仰の先輩がいます。母は毎日、私の頭に手を当てて一日の祝福を祈ってくれます。そうやって私は毎日を守られ、助けられて生きています。
伝道者は言いました。「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない」(伝道者の書4章12節)──一人なら折れてしまうことがある。それでも、「一人で生きていくのだ」と意気込む人がいます。悪くない。でも、本当は「助けて」が言えないだけで、その言葉を発せないだけではないでしょうか。本当はぬくもりが欲しい。でも、「助けて」が言えない。そうやって息を詰まらせていく人が多くいます。なぜでしょう。
それは「助けて」と言うことは勇気がいることだからです。大きな決断であるからです。だから「助けて」と言う人は弱い人ではありません。立派な勇気のある勇ましい人です。なぜなら「共に戦ってくれ」ということだからです。パウロは言いました。「私の戦友」!──なんと力強い歩みなのでしょうか。友と行く道は清々しいです。
周りを見渡せば
私たちは決してひとりぼっちではないはずです。周りを見渡せば共に戦ってくれる戦友がいるはずです。今、一声、「共に戦ってくれ!」と声をかけてもいいのかもしれません。三つ撚りの糸は簡単には切れません。