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《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ー「伝道者の書」とわたし その2
菅野基似(かんの・もとい)と申します。22歳です。ただいま、フリーター生活を始めました。というのも、ついこの間まで神学生として学んでいましたが、持病である「双極性感情障害」にやられ、学び舎から退く決断をしたばかりです。ここではそんな私のささやかな闘病記とともに、私の好きな「伝道者の書」のことばをご紹介し、ともに味わいたく思います。
それに加えて、まだ理解が進みきっていない「双極性感情障害」という病をご紹介し、少しでも誰かのお役に立てればと願っています。
第1章「そらのそら」その2
すべての空しさ
すべてのことは物憂く、
人は語ることさえできない。
目は見て満足することがなく、
耳も聞いて満ち足りることがない。
昔あったものは、これからもあり、
かつて起こったことは、これからも起こる。
日の下には新しいものは一つもない。(伝道者の書1章8–9節)
伝道者は人のすべての空しさを言い表そうとしています。結局、人というものはものによっては決して満足できず、満たされない存在なのです。人は何によってもその心に安らぎを見いだすことはできない。そういう人の本質が変わらない中でこの地の現実も変わりません。そういうあっちにいってもこっちにいっても行き止まりという絶望感を伝道者はこう言いました。「空の空。すべては空。」–––
しかしここまできて、どうしてここまで空しいのでしょう。いや、言葉を換えるならば、どうして伝道者はここまでの空しさに目を留めたのでしょうか。その意味とはなんでしょうか。
「普通」になろうと
私は、日の下で行われる
すべてのわざを見たが、
見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。(伝道者の書1章14節)
伝道者はこの地上におけるすべての営みについて「すべては空しく、風を追うようなもの」と断言しました。「風を追うようなもの」とは何ともわかりやすいたとえです。そこに何かがあるように思われる。けれども、掴むことは絶対にできない。掴もうとしても、残るものは何ともいえない空しさ。惨めな自分がそこにいる–––。
私が自分自身の人生を振り返る時に、そこに惨めな姿を見ます。少しでも「普通」になろうともがいた私の幼い日々。しかし、結局私にやってくるのは病気であり、不登校になることでした。もどかしさを感じていました。何も悪いことをしてないのに苦しまなくてはならないという現実。当時の私に対する冷たい視線を忘れることはできません。私はその当時の周囲の視線をよく覚えています。
今でも決して忘れることができない目があります。それは右耳の真珠腫性中耳炎のために全身麻酔の手術台に寝かされた時でした。麻酔のために意識は朦朧としつつも、泣きじゃくり、助けを求めて、暴れて、なんとかその場から逃れようとしました。けれども複数の医者や看護師に抑え込まれ、私は麻酔を嗅がされました。スーッと意識が遠のいていった記憶を今でも鮮明に覚えています。その瞬間にマスク越しに見えた医師の目は冷たく、希望がありませんでした。「あぁ、自分は死ぬ」そう思いながらあっという間に意識はなくなりました。
手術が終わって目が覚めると生きていたことがわかります。4時間ほどの手術でした。手術が終わったら楽になるわけではありません。手術後の辛さというものがあります。ある時はひどい高熱に晒されます。でも、目が覚めても内臓が眠っているために水を飲むことができません。熱い熱い身体に喉はカラカラ。しかし、疲れ果てた体で残る力を振り絞るようにして泣き叫び、助けを求めても誰も助けてくれない。どうしてこんな目にあわなくてはいけないのだろう。そう幼い私は感じていました。
病棟の窓からは広い綺麗な公園が見えました。小学生の私は遊びたくて仕方がない。でもそれも限られた時間でした。また、久しぶりに学校に行くことができても、右耳の手術のために刈り上げた丸坊主頭を馬鹿にされました。右耳を切開するために、髪の毛はどうしても剃らなくてはいけなかったのです。
現実は現実
曲げられたものを、まっすぐにはできない。
欠けているものを、数えることはできない。(伝道者の書1章15節)
こんなに哀しい聖書の言葉が他にあるでしょうか。しかし、現実は現実であって、それを曲げることも変えることもできないのです。私は順調に傷ついていきました。