写真=菅野基似
《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その9
菅野基似(かんの・もとい)と申します。22歳です。ただいま、フリーター生活を始めました。というのも、ついこの間まで神学生として学んでいましたが、持病である「双極性感情障害」にやられ、学び舎から退く決断をしたばかりです。ここではそんな私のささやかな闘病記とともに、私の好きな「伝道者の書」のことばをご紹介し、ともに味わいたく思います。
それに加えて、まだ理解が進みきっていない「双極性感情障害」という病をご紹介し、少しでも誰かのお役に立てればと願っています。
第3章「神のなさることは」その3
時にかなって美しい
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3章11節)
はじめて、この美しい聖書の一節を読んだ時の感動を忘れることができません。
あの学校に行けなかった孤独な日々に、心身ともに体調を崩した高校生のあの頃に、そして今もなお双極性感情障害に苦しむ日々の中で、唯一の希望はそれらのことが主の御手の中にあるか、どうかにかかっています。
私はその時、ひとりぼっちで、きっと神も私に関心などなく、見捨てておられ、私の祈りも届いていないと思いました。しかし、神はそのつらい日々も今も生きておられ、時にかなって美しいことをなさっているのです。
わたしはここにいる
──わたしはちゃんとここにいる。そう、神様は言いたげです。
この苦しみ、葛藤を覚える日々だからこそ、私は神様を心にお迎えしたい。私にとって唯一の希望はこの空しく、そして苦しい人生が主の御手の中にあることに尽きるのです。これまで歩いてきた孤独な凸凹道においても、私は決してひとりぼっちではなかったこと。すべては神のなさったこと、すべて、主はご存知であること。そう信じることこそ私の希望です。
苦しみの意味
しかし、それにしても、人はなぜ苦しみを経るのでしょう。
伝道者はこうも言います。
私は、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことを知った。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。人が神の御前で恐れるようになるため、神はそのようにされたのだ。(伝道者の書3章14節)
苦しみの意味について考えるときに私たちはいつも頭を悩ませます。つまるところ、苦しみの意味を人はわかり得ません。しかし、苦しみがもたらす効果についてはきっと人はどこかでわかっています。順境の日があるなら、逆境の日があるのです。そんな息が詰まることもある日々の中で、神の摂理を信じるなら、私たちの心に生まれるものは、神を恐れる心、畏敬の心だというのです。
確かに、確かに。人は苦しみ、逆境の日を歩む時に、神について学ぶことがあります。あのパウロは宣教をするために多くの苦難を通らなければなりませんでした。そうした苦しみを乗り越えたパウロの証を読みましょう。
苦しみを経て
兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。……
それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。……(第二コリント1章8〜10節)
パウロは宣教のために死が迫る苦しみに直面しなくてはなりませんでした。しかし、そういう苦しみを経てパウロは自分たちが自分自身に頼らず、神に頼る者となったというのです。──そうです。死が迫るほどに追い詰められ、何もかも希望が消え失せたその苦しみの最中で、これまで見えなかった神を私たちは見ることになるのです。自分に頼ることをやめて、自分を捨て、ただ神に頼む者となる。それこそが、苦しみがもたらす効果なのでしょう。
人が成長を遂げるのは苦しみの最中においてです。一人の罪人が練られ、神に頼る者となる奇跡はその痛々しい逆境の日々の中にある。だから、あれも、これも私に必要だったと言える。──だとしたら、振り返ってみた時にこれまでの一つひとつの涙を「あの時があって本当に良かった」と笑って言える日を待ちたいと思います。
優しい祈り
今日も私の心の中で、牧師先生のあの優しい祈りが捧げられています。
憐れみと愛に富み給う天の父なる神様、
今、基似くんのお話を聞きました。
どうか、振り返ってみたときに、
「あの時があって本当に良かった」と
言える日が一日も早く来ますように、
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン