《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その6

信仰生活

(C) 2019 奥山仰輝

《バイブル・エッセイ》「心は晴れる」そらのそら ーー「伝道者の書」とわたし その6


菅野基似(かんの・もとい)と申します。22歳です。ただいま、フリーター生活を始めました。というのも、ついこの間まで神学生として学んでいましたが、持病である「双極性感情障害」にやられ、学び舎から退く決断をしたばかりです。ここではそんな私のささやかな闘病記とともに、私の好きな「伝道者の書」のことばをご紹介し、ともに味わいたく思います。
それに加えて、まだ理解が進みきっていない「双極性感情障害」という病をご紹介し、少しでも誰かのお役に立てればと願っています。

第2章「快楽の実験」その3

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自分の罪深さ、そして空しさ


私はあのつらい記憶をなかったものとしません。なぜなら、あの空しい時間がかえって今の私をつくっているからです。確かに罪の中にあって、空しさを覚えました。私の快楽への憧れが最終的に教えてくれたものは自分の罪深さ、そして空しさでした。

「クリスチャン」とは悲しみをきちんと悲しめるようになった人のことではないかと思います。何を悲しむのか。それは空しい自分を悲しむということです。そのためには、自分のありのままを見つめなければなりません。見つめて、そこに空しさをつくる「何か」を探すのです。
その「何か」とはなんでしょう。伝道者は快楽の探求によって一つのことを突き止めました。それは自分の人生に神がいない、ということでした。

神不在の人生


––神不在の人生。そこには空しさしかありません。
ところが、伝道者の快楽の探求によって私たちは神の存在を求めるようになります。空しさしか残らない何かが欠けている人生に私たちは神を思うのです。
伝道者は快楽におぼれ、味わい、試した結果、こう結んでいます。

生涯での営みの意味

実に、神から離れて、だれが食べ、
だれが楽しむことができるだろうか。
(伝道者の書2章25節)

「快楽」から始まった2章は神と出会い、結びとなります。これが伝道者の結論でした。確かに人生には楽しい宴がある。けれども、神不在の人生の営みは空しく散っていくだけ。
しかし、そこに神がいたらどうでしょうか。神がその場にいたら、私たちのこの生涯での営みに意味が出てきます。神が食べよと、神が楽しめと、そんな神の御心に生きるようになることこそ、実は私たちが待望している欲求なのではないでしょうか。

空しい人生の中に


––創世記にはヨセフ物語があります。
ヨセフは兄弟のねたみを買い、殺されそうになり、売り飛ばされますが、最終的にエジプトの大臣となり権力を握りました。そこで昔自分を殺そうとした兄弟と家族一家のいのちを救うこととなります。
しかし、ヨセフはもっていた権力を使い、兄弟たちに復讐することだってできました。けれども、ヨセフはそうはせずにこう言いました。

神の御手の中

神が私をあなたがたより
先にお遣わしになったのは、
あなたがたのために残りの者をこの地に残し、
また、大いなる救いによって、あなたがたを
生き延びさせるためだったのです。
ですから、私をここに遣わしたのは、
あなたがたではなく、神なのです。
(創世記45章7〜8節)

ヨセフはその空しい人生の中に神の存在を認めました。兄弟の罪もそして至らなさも見つめながらも、それでもそこに神の介入があることを認めました。
私の人生も神の存在を認め、神の介入を認めたいと思います。神不在の空しい生き方をしていたあの当時のことを振り返りつつも、そして傷ついた心がありつつも、しかし、どれもこれもすべては神の御手の中にあったことであることを告白します。私が快楽におぼれ、罪の中に沈んでいるその時も神の導きがあったことを信じます。

遠回りを歩く人生


私は「双極性感情障害」を患いました。どうしても苦しまなければならなくなった人生があります。しかし、私が病気をしたのも、今もその病のために遠回りを歩く人生を送るようになったのは、他の誰かのせいでも、自分のせいでもない。実に神なのです。神様の不思議な導きとご計画の中で私は生かされているのです。

この空しい人生とは、つまるところ神不在の人生のことを言います。しかし、私たちの人生の一つひとつの営みは、神から離れないで、神ありきの人生を送ることにより、私たちの人生には一気に意味が見出され、生きがいが生まれるのです。

実に、神から離れて、だれが食べ、
だれが楽しむことができるだろうか。
(伝道者の書2章25節)

 

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