マジョリティ化したキリスト教と変容する「愛」
変容する「キリストの愛」
中世期(5〜15世紀ごろ)を迎えた途端、ヨーロッパ社会は確認されうる限り史上最初のペストに直面する。542年に発生した「ユスティニアヌス(当時の東ローマ皇帝)のペスト」の被害は甚大で、著述家プロコピオスの『戦史』によれば、最盛期には首都コンスタンティノープルで1日1万人が死に、流行は4か月続いたという。政治的な影響も極めて大きく、異民族と戦闘を繰り返し帝国の威信を回復しようとしていたユスティニアヌス帝の努力は失敗に終わり、人口の激減はのちのイスラム勢力の侵食を許すことにもなるのである。
不衛生な環境と繰り返される戦争。中世期には当然のように疫病が蔓延し、人々の病歴も疱瘡、ペスト、麻疹、結核、インフルエンザなど多様なものになっていく。中でも人々が最も恐れた病の一つがハンセン病であり、その伝染力は決して強くはなかったが、外見に現れるその症状の影響が恐怖の対象となった。中世初期、ハンセン病が蔓延し始めた際に人々が取れる手段は社会的規制のみで、教会が率先してその役割を担った。この時規制の根拠となったのが旧約聖書にある「ツァラアト」の規定で、ハンセン病に当てはめて用いられたのである。
「キリスト教の守護者」と呼ばれるカール大帝などが出したハンセン病者に関する勅令によれば、罹患者は市民籍から離脱させられ、市外に隔離されて宗教的な慈善によって扶養されることとなっている。この時の隔離施設が「ラザレット」(ハンセン病の別名「ラザロス」に由来。ルカ16章19〜31節より)と呼ばれる施設で、特に11世紀以降各地に建てられた。患者はそれとわかるよう特定の装いをすることが義務づけられ、教会をはじめどんな屋内に入ることも禁止、死後も教会に埋葬されることはなかった。当時の隔離政策は、公衆衛生上ではなく社会的な隔離であったと言える。
支配者と民衆の無知によって嫌悪の対象となる一方、ハンセン病は宗教的な慈悲を駆り立てる対象でもあり、フランシスコ会など一部の修道会による救ハンセン病事業への献身も見られた。
ヨーロッパにおけるハンセン病は13世紀にピークを迎え、減退期に入る。その理由は、一説には二次感染を受けやすいハンセン病者を14世紀のペスト(黒死病)が一掃したからとも言われている(結核の蔓延による、とする説もある)。
黒死病と中世期の終焉
ヨーロッパにおけるペストの伝播:第2のパンデミック(Wikimedia Commons)
中世期終盤の13〜14世紀、多くの町で人口がある種の飽和状態に達しており、資源の減少や気候の悪化による不作が人々の生活環境を圧迫していた。このような状況のヨーロッパを、ペストが襲ったのである。
1347年から数年の被害は特に凄まじく、全人口の約3分の1が死んだという分析もある。小さな共同体が幾つも消滅し、町々は死屍累々たるありさまとなった。ペストは、この後も17世紀ごろまでヨーロッパで波状的に流行を繰り返し、結果として国土を荒廃させ、数千万もの人命を奪い去ることになる。
人智の及ばない疫病の前に、人々の見せた反応は異様とも言えるものだった。ペストの惨禍を神の怒りと捉え、贖罪行為として自らを打ち叩いて救済を求める「鞭打教徒」や、疫病から免れる祈祷舞踊としての「死の舞踏」などである。
そして最も凄惨と言える反応が、ユダヤ人の虐殺であった。ペストの発生原因としてはさまざまな説が考えられていたが、そのうちの「ユダヤ人が毒物を散布した」という流言蜚語に基づく反応である。殺戮は1348年にスイスで始まり、ドイツ、フランス、イギリスなど各地に波及した。多くのユダヤ人が処刑されて財産を奪われ、弁護した者も「同罪」であった。こうした迫害によってユダヤ人が東欧へと逃れ、後のユダヤ人社会の中心地を形成したと言われている。
集団ヒステリーに限らず、ペストは人々の文化面、信仰面、制度面などさまざまな側面に影響をもたらした。中でも特筆すべきは、道徳の崩壊、教会への不信といった信仰面の動揺である。教会の既存の儀式や聖礼典が疫病に対して何の効果も発揮しなかった事実、いち早く逃亡する司教や枢機卿といった高位の聖職者たちの姿を多くの人が目にしたことは、中世を支配していた宗教的権威の崩壊を早めたと言える。すなわち、後のルターによる宗教改革を成功させる一つの要因になったとも考えられるのだ。そして中世期は終焉を迎える。ペストが「夜明け」を早める一つの役割を果たしたことは、もはや疑いのない事実といえるだろう。〈「百万人の福音」2020年7月号〉
※トップの写真は版画「死の舞踏」(1493年)。 「生」に対する圧倒的勝利を勝ち取った「死」が踊っている姿(Wikimedia Commons)
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