キリスト教発展の背景にパンデミック?
世界が新型コロナウイルスの蔓延のもとに置かれてから1年が過ぎた。感染拡大初期に見られた「みんなで我慢しよう」「ウイルスに打ち勝とう」といった高揚した意識も、感染がおさまらない状態が日常化して陰りが見えている。「いつになったら終わるのか?」という声が高まる中、改めて疫病が世界の歴史に与えてきた影響を振り返りたい。疫病を楽観視したり、「だから我慢しよう。きっと益になる」と言うつもりは決してないが、神が疫病を支配しておられ、人々と共に疲れ、共に痛み、共に泣いてくださるということを思い起こすことができればと願う(以下は「百万人の福音」2020年7月号に掲載された記事です)。
旧約聖書の疫病
遡れば遡るほど残存する記録の少なくなることから、疫病の起源を探ることは容易ではない。しかし古病理学(化石や出土人骨、壁画などの資料から原始・古代の病気を研究する学問)の研究によれば、少なくとも古代から疫病は人類と共にあった。壁画や古代エジプトのミイラ、歴史書などにその証拠は多く残されており、旧約聖書にも、神による懲らしめなどとして登場する。
出エジプト記には「十の災い」としてエジプト人やその家畜に疫病が下ったことが記されているし(9章1〜7節)、またサムエル記には、神の箱を奪ったペリシテ人が疫病によって恐慌状態に陥るようすや(Ⅰサムエル5章6〜12節)、罪を犯したダビデに対する懲らしめとして130万人のイスラエル人男性中、7万人が疫病に倒れたこと(Ⅱサムエル24章)などが記録されている。
さらに聖書に直接記述はないが、エステル記に登場するペルシア王クセルクセスのギリシア遠征は、難戦の果てに軍隊に疫病が発生したため這々の体で退却せざるを得ず、失敗に終わったことがわかっている(ヘロドトス『歴史』第8巻)。
キリスト教の繁栄
カルタゴの司教キプリアヌス(Wikimedia Commons)
地中海世界を広く支配したローマ帝国は紀元前の共和政時代からしばしば悪疫に見舞われたが、紀元2世紀から6世紀の間に頻発したパンデミックは、それをはるかに凌ぐものであったという。165年、時の皇帝の名から「アントニヌスの疫病」と呼ばれた今日も詳細不明の疫病によるものと、251年、医療活動に従事したカルタゴ(現在のチュニジア北部)の司教の名から「キプリアヌスの疫病」として知られる病によるものである。いずれも、広範囲で高い死亡率を記録した。
研究者の多くは、このように頻発した疫病が後のヨーロッパ社会におけるキリスト教拡大に大きなきっかけを与えたと見ている。アメリカの宗教社会学者ロドニー・スタークはその著書『キリスト教とローマ帝国』(新教出版社)で理由を幾つか挙げているが、ここでは以下の2点に絞って取り上げたい。
①キリスト教が蔓延する疫病や死に対する「答え」をもっていたこと
スタークは、「危機が信仰の危機を生む」ことについて次のように述べている。
「宗教がどうしてその災害が起こったのかを十分説明しきれない場合。つぎは、その宗教が災害に対してなすすべがない場合であり、とりわけ宗教以外のあらゆる手段が無効で、超自然的なものに救いを求めるほかはないときでさえ、宗教が役に立たないとなると致命的である。社会は、伝統的な宗教のこうした『無能さ』に対し、しばしば新しい信仰を進化させるか、採用するかで処してきた」
2、3世紀のマジョリティであった多神教やギリシャ哲学が疫病の悲劇に対して答えをもたなかったのに対し、キリスト教はその教義から、現世の苦しみの「意味」とその先にある希望(天国)を語り、犠牲者、生存者、罹患者に心の慰めを与えることができたのである。
②互いに愛し、仕え合うキリスト者の生き方
260年ごろ、アレクサンドリアの司教ディオニュシウスは復活祭の手紙の中で、「異教徒」が病人を見捨てて逃げる中、キリスト者たちが率先して病人の看護に当たり、時には命を落とすこともあったと誇らしげに綴っている。凄惨極まるパンデミックの中では、衰弱しきった患者に食事や水を与えるといった基本的な看護活動でさえも致死率を下げるのに寄与することがあり、キリスト者の愛に基づいた行動は悪疫の中でより高い生存率につながったし、当然のことながら人々の感謝、関心、支持を集めたことだろう。
頻発した疫病は結果として旧来の諸宗教の信用を失墜させ、キリスト教を発展させた。親キリスト教の皇帝も現れ始め、380年にはテオドシウス帝によって国教となる。そして、帝国が斜陽化した後もキリスト教は「異民族」間に広がり、一層安定した地位を築いていくのである。
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