《イースター》イエス・キリスト復活の日!

証し・メッセージ

《イースター》死を乗り越えて生きる

 イースターおめでとうございます! 受難週を通してイエスの苦難の日々をたどり、今日、復活を共に祝えることは大きな喜びです! 本稿では「百万人の福音」2020年4月号に掲載されたイースター号のメッセージをお届けし、イエスの復活の意味やそれによって私たちにもたらされた希望について、改めて見つめ直したいと思います。

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別れを繰り返す人生

 木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出し その若枝は絶えることがない。(ヨブ記14章7節)

 千葉市から東京湾沿いの海岸線を東京に向かう湾岸道路の市川あたりに、20メートルあまりの高さのかなり大きな山があります。並行して走る京葉線の車内からも見ることができます。
 一面草木に覆われているその場所は、かつては各地の工事現場などで掘り返した土を単に積み重ねておいただけの人工の小山でした。赤茶けた裸の土の塊でしたが、通りかかるたびに徐々に大きくなり、やがて巨大な土の山になりました。
 そして何年も経つうちに、裸の土の塊全体を草が覆い始め、やがて木も育つようになり、今では、どう見ても昔からあった普通の山です。いつか土が必要なときに再び崩されてどこかの工事現場に運ばれていくのかもしれませんが、最近見た人は、その山が人工の山であるなどと思いもしないことでしょう。ただの自然の山がそこにあるだけです。「自然の復元力はすごいな」、その山のそばを通り過ぎるたびにそう思います。

 自然界の草木の生命力は途絶えることがありません。もちろん、個々の草木を考えれば、芽生え、育って、やがて枯れてしまいます。個体ではなくその種類としての生命が受け継がれているに過ぎません。人間も同じことで、人という存在を考えれば、いのちが親から子へと受け継がれて、生命が途絶えることがありません。その種類全体としての生命が受け継がれていくのは、自然界の動植物はみな同じことです。
 けれども、私たちは他の動植物を見るときとは違って、自分たちの存在を、当然のことですが個人個人それぞれ別個の存在として意識します。一人一人が、生まれ、成長し、やがて年老い、地上の人生を終えていくのです。たとえ「人」という存在のいのちは総体としては受け継がれていっても、個人個人は終わりの時を迎えます。そしてそのたびに、故人と親しかった者たちは愛した人との悲しい別れを経験します。

 私が初めて死を意識したのは、小学校4年生の時でした。同じクラスの友人のH君が、夏休みの終わり頃、白血病で亡くなりました。H君の死は、どんなに親しくても、どんなに若くても、そして元気であっても、突然の病で召されることがあるのだ、と私の人生に「死」が入り込んできた瞬間でした。
 私自身も、小学6年生の夏のキャンプの時に奥秩父の川で溺れそこない、その場にいた先輩に助けてもらった経験があります。
 20代の頃には、私より数年若かった友人が突然召されました。朝ベッドで亡くなっているのを家族が発見したとのことでした。その原因が自死であったことを何十年もたってから知らされ、当時何も相談に乗ってあげられなかった自分のことが悔やまれ、悲しみがよみがえりました。

 これまでの人生で経験した数々の別れを振り返れば切りがありません。妻の両親も、私の両親も、すでに地上での旅を終えています。「人」全体としては、他の動植物と同じようにいのちは受け継がれていきますが、私たちはそれで納得することはできません。個人個人のことを愛しく思い、親しい人との別れを悲しく、つらいこととして受け止めます。地上で会うことはもうないのです。
 キリスト教で語られる、死後の天国という概念や愛する人たちとの再会の希望、復活への期待といったものは、そうした死別した人への悲しみが生み出したのでしょうか。死後についての諸思想は、創作の産物なのでしょうか。

ヨブの苦悩

 旧約聖書に登場するヨブは、財産を失い、子どもたちを失い、自らも重い病気にかかり、さらには試練に共に立ち向かうべき妻との間にも亀裂が生じそうになり互いにいさめ合う、という人生の苦悩のただ中におかれました。
 そのヨブに向けての「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい」(ヨブ2:9)との妻のことばは、悲しみの中でなお神への信仰を貫こうとしたヨブに対して投げかけられた、不信仰に陥ってしまった女性の捨て台詞ととるべきではないでしょう。「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている」(同2:10)とヨブが応じた時、「私の知っているあなたは、そんなことを言うような愚かな女ではないはずだ」との思いが込められていたはずです。妻は妻で愛する夫の塗炭の苦しみを見るに忍びず、その苦悩から解放させてあげようと願い、夫は夫で「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか」(同2:10)と語りかけることによって、二人で共にこの人生の苦難を乗り越えようと呼びかけたのでしょう。
 この世界のすべてを創造なさった神を信じる者には、人生の試練に際して、通常の肉体的・物質的・精神的な苦難に加えて信仰的な葛藤も生じ、それらを何とかして乗り越えなければ真の解放は得られない、との事実がこの夫婦の極限状態での会話の背景にあるのでしょう。

 そうした苦悩の中からヨブは、冒頭に引用したように、自然界は再生し、木は切り取られてもなお望みがあるのに、「人は死ぬと倒れたきりだ。人間は息絶えると、どこにいるのか」(同14:10)と、自分たち人間にとって失われたものは戻らないという悲しみと苦しみに満ちた現実を表現しました。
 ヨブの苦しみは、慰めようとして訪れて伝統的な神理解・善悪観を語り続ける友人たちのことばによっては解決することがありませんでした。むしろ苦しみが増加させられるようなものでしたが、それでもそうしたやり取りの中から、ヨブはかろうじて、らせん階段を登るように思索の行き来を繰り返しつつ、自分なりの理解と受容に進んでいきます。
 自分の苦悩を絶対者なる神の前で弁護してくれるもうひとりの絶対者がいるべきではないか、世界の創造者であり統治者・裁判官であられる神は唯一であることはもちろん承知している、それでもその神の前で私のことをとりなしてくれる弁護者がどこかにおられるのではないか、そうでなければ人生は割に合わない…。そうヨブは思うようになったのです。
 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを」(同19:25)。これが、ヨブがかろうじて到達した一つの結論にならないような当座の結論でした。唯一神への信仰と矛盾しているようですけれども、あたかももうひとりの神を求めるかのように、ヨブは自分の贖い主を求めたのでした。いなければおかしい、とまで思いつめたのです。

 「土のちり」とは、創造主なる神が人をお造りくださった時に、人の肉体の素材となさったものです(創世2:7)。他の一切の被造物がその被造物それだけの意味で造られたのに対して、人は「神のかたち」に造られた霊的存在です。単に自然界の法則や自らの本能に沿って生きることが許された存在ではなく、善悪をわきまえ、創造者なる神やそのお方がお造りくださった自然界、特に自分たち人間の存在理由や目的を考え、さらに地上の生を越えた先にある永遠を思い、創造主と会話を交わすことのできる存在です。
 そのような高貴な出自をもちながらも、素材としては地のちりから造られた、儚い存在です。その矛盾が、人間の抱える、いや人間だけが抱える、種々の問題や葛藤を生み出しました。永遠を思うことのできる有限の存在。義と聖とに憧れつつも罪を犯してしまった汚れた存在。愛を知りつつも憎しみや争いを生じさせてしまう存在。そうしたちりから造られた存在にしか過ぎない「私」の上に、いつの日か必ず私の贖い主が立ってくださる。自分が生きているうちか、あるいは地上の生を終えた後か、時は定かではないにしても、いつか必ず私を弁護してくださるお方、人生の悩みと苦しみに解決を与えてくださるお方、今は解くことのできない数々の謎に解答を与えてくださるお方。私の人生を罪の縄目の状態から自由へと導いてくださるお方。そうした弁護者がいつか必ず私のもとを訪れてくださるはずだ、とヨブはひとまずの結論を得たのでした。

 ヨブ記はやがて、最後に神からヨブに向けられた語りかけを紹介します(38〜41章)。けれども、それは最終的な解答をヨブに与えるものではありませんでした。あなたには知らないことが多々ある。自然界のことも知らない。まして見えざる霊的な世界での神のご意志やご計画、人生の目的や行く末を知ることができるはずがないではないか。それが、神からヨブに対する当面の回答であり、ヨブはその回答を受け入れて、人生の途上で立ちすくんでいた自らの歩みを、先に進ませることにしたのでした。

 愛する人たち・親しい友たちと、いつまでも共に過ごすことはできず、いつかは別れなければならない私たちの人生。人の人生はなぜそのようなものなのか、別れなければならないことが生きとし生けるものに課せられた定めならば、なぜ残された者たちが悲しみにさいなまれつつ生きなければならないのか。この問いが、人の歴史のあらゆる芸術、あらゆる営みの根底にあります。そうして人はさまざまなかたちで、死の定めを乗り越えるための当面の答えを得ようと努めてきたのです。

主イエスの復活

 新約聖書に目を向けると、使徒パウロはテサロニケ教会の信徒たちに「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです」と励まし、「イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです」(Ⅰテサロニケ4:13〜14)と教えました。

 クリスチャンであっても愛する人との死別は悲しいものです。いや、悲しいのは当然のことです。たとえ見知らぬ人々のことであっても、世界のさまざまな地で繰り返される、災害によるのか事故によるのか戦争や犯罪によるのか、多くの人々の理不尽な死に対して、私たちは悲しみ、さらには誰に対してか、何に対してか、ともかく憤りさえ覚えます。けれどもどんなにあがいても、愛する人々との地上での交わりが死によって唐突に絶たれ、二度と会えなくなる現実を変えることはできません。
 けれどもパウロは、悲しみに浸り続ける必要はないと励まします。「イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら」と説明を付してのことですが。

 このことばは、クリスチャンだけが優越感に浸ったり、他宗教や他思想の人々を蔑んだりしているわけではあリません。あらゆる人々に対して、ここに死を乗り越える真実の、そして唯一の希望がありますよ、と呼びかけてもいるのです。
 「イエスが死んで復活された」。人類にとっての希望の源泉である主イエスの復活は、作り話やおとぎ話ではありません。死の悲しみを乗り越えるために必要な机上の空論として生み出されたものではありません。紀元30年の春頃、ローマ帝国の支配下にある地中海の東の端のエルサレムという町の郊外で、犯罪人の一人として十字架につけられて死んだイエスというお方が3日めに復活なさった、という歴史的な事実なのです。
 遠い昔にヨブが極限状況からただ一つの希望として抱いた「ちりのような自分の上に立ってくださる贖い主」が主イエスとしておいでくださり、きよく罪の無い生涯を送られた後に私たちの罪を背負い、私たちの身代わりとして罪の刑罰である死を経験してくださり、そうして3日めに復活なさって、ご自身がいのちの主であられることを示してくださいました。死を乗り越えるという、誰一人として体験したことのない経験をしてくださって、死の悲しみに囚われている私たちをいのちへと招いてくださっているのです。

 パウロは「キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。…(その場合)私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です」(Ⅰコリント15:14〜19)と記しました。2000年前に地上での人生を送ったイエスという歴史上の人物が、極めてきよく偉大なお方であられたことを否定する人は少ないでしょう。けれども、私たちのこの地上の人生の模範とするだけでは、このお方についての理解は不十分なのです。そしてもし歴史的な事実として復活なさらなかったのなら、いくら偉大な人物であったとしても、イエスに人生をゆだねる生き方は、現実を直視しない、哀れな生き方でしかありません。

 イエスは、歴史的な事実として復活してくださいました。そして私たちに死を乗り越える復活の希望を与えてくださいました。その復活の状態をパウロは「朽ちないものに…栄光あるものに…力あるものに…御霊に属するからだに」よみがえることなのだ、と説明します(Ⅰコリント15:42〜44)。
 主イエスの復活は、このお方を自分の贖い主と信じる者たちに、今は地上ではもう会うことのできない、愛する人々との再会の希望を、そして今生きている私たちに死の恐怖から解放された新しい生き方を、さらにやがて迎えることになる死を乗り越える先にある神のもとでの永遠のいのちへの確信を、与えるものなのです。
 愛する人たちと別れた経験と悲しみは、生きている私たちの心の中にいつまでも残ることでしょう。けれども、私たちには贖い主がいてくださいます。そのお方が真のいのちと唯一の希望へと招いていてくださいます。その招きに、あなたも応じてくださいますように。

 イエスは…言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11章25節)

中台孝雄 なかだい・たかお:日本長老教会 希望キリスト教会牧師
〈「百万人の福音」2020年4月号〉

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