《じっくり解説》天の御国とは?

天の御国とは?

天の御国…

1.用語.<復> 「神の国」([ギリシャ語]ヘー・バシレイア・トゥー・セウー)という表現は福音書においては,マタイには4回しか用いられていないが(12:28,19:24,21:31,43),マルコには14回,ルカには32回用いられている.これに対し,マタイでは「天の御国」([ギリシャ語]ヘー・バシレイア・トーン・ウーラノーン)という表現を33回用いているが(3:2,4:17等),マルコやルカでは全然用いられていない.これは,マタイの福音書はユダヤ的色彩が濃く,ユダヤ人が十戒(十のことば)の第3戒に基づき,「神」という語さえも用いることをはばかって,代りに「天」という神を指す婉曲な表現を用いたものと考えられる.従って,この二つの表現は同義と考えることができる.ヨハネには「神の国」という表現は2回用いられているだけである(3:3,5).いずれにせよ,これらの表現が,イエスの宣教と教えの中心をなす重要な概念を含んでいることは明らかである.使徒の働き以下においては,専ら「神の国」という表現が用いられ,「天の御国」は用いられていない.しかし,福音書にはなかった「キリストの御国」という表現が用いられている.それらは「キリストと神との御国」(エペソ5:5),「主,およびそのキリストの御国」(黙示録11:15直訳.新改訳聖書では「主およびそのキリストのもの」と訳しているが,ギリシヤ語原文では「キリストの御国」となっている)のように,いずれも父なる神とキリストとの連名になっており,キリスト単独の用例は「イエス・キリストの永遠の御国」(Ⅱペテロ1:11)だけである.<復> 旧約聖書には「神の国」という表現は一度も用いられていない.これに近い表現は「主の王国」[ヘブル語]マルクート・アドーナーイ(Ⅰ歴代28:5直訳.新改訳では「主の王座」としているが,[ヘブル語]マルクートには「王国」という意味がある),「あなたの王国」(詩篇45:6,145:11,13),「その王国」(詩篇103:19.[ヘブル語]マルクートーと三人称の語尾が付いているので,「彼の王国」とも訳される)などがある.「主」にしても,「彼」にしても,父なる神を指していることは明らかである.ダニエル2:44では「天の神」が「一つの国を起こ」すという表現がある.旧約外典に至って初めて「神の国」という表現が見られる(ソロモンの知恵10章10節).<復> 聖書においては,「王国」という意味の[ヘブル語]マルクートは,「王権」とか「支配権」という抽象的な概念を持っていると考えられる.Ⅰ歴代28:5の[ヘブル語]マルクートが新改訳で「王座」と訳されたのは,このためであろう.詩篇103:19の「その王国はすべてを統べ治める」という場合の「王国」は,明らかに「支配権」を意味していると考えてよいであろう.新約における[ギリシャ語]バシレイアは,旧約の[ヘブル語]マルクートの概念を受け継いでいると言えよう.そのため,支配の領域やその領域の中に住んでいる民をも含めた意味での,具体的概念の場合は少ないと言える.従って,イエスが「天の御国が近づいた」と語った時(マタイ4:17)も,神の支配の時が近くなったという意味である.しかし,マタイ4:8,マルコ6:23,黙示録16:10などでは,[ギリシャ語]バシレイアは,支配する領域を指す具体的意味に用いられている.<復> 2.「神の国」の思想的背景.<復> 旧約には「神の国」という表現そのものはないが,神が王として支配しておられるという思想は,いろいろなところに見ることができる.申命33:5では,モーセが死を前にしてイスラエルの民を祝福したことばの中で,神はイスラエル民族の王となられたと語っている.サムエルも神がイスラエルの王であると述べている(Ⅰサムエル12:12).また,神はイスラエルの王であるだけでなく,諸国の王でもあると述べられている(詩篇22:28).さらに神は天に王座を定め全宇宙を支配しておられる(同103:19).そして,神の王国は永遠にわたる王国である(詩篇145:13,ダニエル6:26).神はイスラエルの王となり,彼らを敵の手から救い出す救済者となられる(イザヤ44:6,ゼパニヤ3:15).神はこのために異邦人の王であるクロスをも用い,彼を「わたしの望む事をみな成し遂げる」(イザヤ44:28)と語って,彼すらも神の支配権の下にあり,御計画を成し遂げる一手段として用いられるということが述べられている.このように神の王権は全世界,全宇宙に及び,また永遠に続くものであることが明らかにされる.しかし,イスラエルの歴史において,神が全世界の支配者とは思われないような現実が存在することも否定できなかった.彼らはしばしば外敵に脅かされ,その支配下に置かれた.イスラエルの神こそが全世界を支配される唯一の神であるならば,なぜわれわれはこのような異邦人の支配下に置かれなければならないのか,ということがイスラエルにとって大きな問題となった.この問題の解決として,預言者たちは終末に目を向けるようになった.神は永遠の王ではあるが,神の完全な支配はまだこの地上においては十分に表されていない.しかし,未来において「主の日」が実現する時,神の完全な支配が実現すると語った.この「主の日」はさばきの日であり,イスラエルも異邦人も神の主権的さばきに服さなければならず,これから逃れることはできない(アモス5:18‐20,ゼパニヤ1:14‐18).この「主の日」はまた「終わりの日」でもあり,神の完全な支配が実現し,その支配の下で全宇宙に救いと平和と秩序がもたらされる終末的理想の時代が実現する時である(イザヤ2:2‐4,11:6‐9,ミカ4:1‐4).このような終末的神の支配をもたらすために,神はメシヤを起される.そのメシヤはダビデの子孫の中から起されると告げられた(イザヤ9:6,7,11:1‐10.参照Ⅱサムエル7:12,13).しかし,捕囚以後になるとダビデ王家は滅亡したためこの希望に代るものとして,天的な人物である「人の子」が出現して歴史に介入し,天的主権と国が彼によってもたらされるという,黙示文学的希望が出現した(ダニエル7:13,14).このように神の国が地上的なものであるか,天的なものであるかという二つの見解は,その後のユダヤ教における黙示文学に受け継がれた.旧約偽典であるエノク書においては,前半の1—36章まででは,神の国は地上的,歴史的なものとされているが,後半の37—71章では超越的,天的なものとされている.そしてユダヤ教の黙示文学は悲観的となり,神が歴史の中で現在も働いておられるという考え方が失われた.その代りに,現在はサタンによる悪の支配下に置かれ,神の民は苦難を受けなければならないが,終りの時が来ると神は悪の力を滅ぼし,御自身の国を樹立すると考えるようになった.神の国を希望をもって待ち望むというよりは,正しい者はひたすら忍耐をもって神の国が実現するのを待つという,非常に消極的な期待となった.また,悪が支配する「今の世」と,神の国が実現する「来るべき世」との対立という構造が明らかになってきた.神の国に対する同じような期待はクムラン宗団にも見られる.彼らは,終末の時が来ると天使が下って来て,彼ら「光の子」を助けて,敵である「やみの子」に対して打ち勝たせると考えた.またラビ文書の中には律法を重視する傾向も現れた.彼らは,神の国とは神が主権を行使されることであり,神は律法を通して主権を行使されると考えた.それゆえ,律法に服従し律法を守る者は,すなわち神の支配に服従する者であると考えた.そして,この世においては,神の支配は律法に従う者だけに限定されるが,この世の終りには,神は王座から立ち上がって,神に従わない者に対してさばきを行い,イスラエルの中の正しい者を集めて,祝福の状態に入れて下さると考えた.パリサイ派はこのような考え方に立ち,律法の行いを重視した.これに対し,ユダヤ教の中でも熱心党は,ローマに対してしばしば反乱を起し,実力によって神の国を実現しようとした.彼らは神が神の国をもたらされるまで静かに待っていることができず,暴力を用いてでもその実現を早めようとした.そして,その指導者たちは自分をメシヤであると,しばしば自認していた.それゆえ,この運動は単に政治的,民族的なものではなく,宗教的色彩を帯びていたのである.このような状況の中にイエスが現れ,「時が満ち,神の国は近くなった.悔い改めて福音を信じなさい」と語ったのである(マルコ1:15).<復> 3.イエスの宣教における神の国.<復> イエスの宣教における神の国は,未来的な面と現在的な面の両面を持っていたと言える.<復> (1) 未来的面.イエスの思想においては,歴史は二面性を持っていた.つまり,「今の世」と「来るべき世」という構造である.そしてイエスにおける神の国は,旧約以来の伝統を受け継ぎ,一面において未来の終末において実現されるものと考えられていた.イエスは弟子たちに対し,「御国が来ますように」(マタイ6:10)と祈るように教えた.ここでは明らかに神の国は未来に属するものである.そして神の国が到来する時はさばきの時であり,邪悪な者が神のさばきによって永遠に滅ぼされる時であった(マタイ25:41).その時,邪悪な者が滅ぼされると同時に正しい者たちは集められ,天の御国において神の祝福を受けることができる(マタイ13:36‐43).この祝福は「神の国で食卓に着く」という表現で表されている(ルカ13:29).このように,神の国とは神が王権をもって支配することであり,それは終末の時に実現するものであった.しかもその時には,神は主権をもって人々をさばき,邪悪な者を永遠の滅びに定め,正しい者を永遠の祝福にあずからせるのである.従って,神の国に入ることは,永遠のいのちを受けることと同じである.イエスのもとに来た青年が「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには,私は何をしたらよいでしょうか」(マルコ10:17)と尋ね,失望して帰って行った時,イエスは弟子たちに「裕福な者が神の国にはいることは,何とむずかしいことでしょう」と答えられた(同10:23).この場合,神の国と永遠のいのちは同義的に用いられており,神の国は明らかに来るべき世における神の国であり,その意味において永遠のいのちも終末的な意味を持つものであった(参照ダニエル12:2).さらにイエスは,弟子たちがすべてを捨ててイエスに従ったと言った時,彼らに対し,「今のこの時代」における報いとともに「後の世では永遠のいのちを受けます」と語っている(マルコ10:29,30).このことも,永遠のいのちと同様に,神の国が終末的来るべき世におけるものであることを示している.<復> (2) 現在的面.またイエスは,神の国は彼の到来とともにすでに実現しているという面も示された.パリサイ人たちが彼を悪霊のかしらの力で悪霊を追い出していると非難した時,イエスは彼らに答えて「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら,もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(マタイ12:28)と述べている.ここではイエスが悪霊どものかしらであるサタンに打ち勝ち,人々をその力から解放したことが語られている.ユダヤ教においては悪の力が打ち破られるのは終末の時であるが,ここではイエスの到来によって終末の時が開始されたことが示されている.しかし,これは終末の完成の時ではなかった.イエスの到来とともに王としての神の力によりサタンは束縛され,人々はその力から解放されたのである.このことをイエスは「まずその人を縛ってしまわないで,どうしてそのようなことができましょうか」(同12:29)ということばで表現している.しかし,サタンは依然としてこの世において活動しており,彼が完全に滅ぼされるのは,終末の完成の時まで待たなければならない.このような神の国の到来は,イエスがナザレの会堂においてイザヤ書のことばを朗読し,「きょう,聖書のこのみことばが,あなたがたが聞いたとおり実現しました」(ルカ4:21)と言われたことばによっても明らかにされる.またバプテスマのヨハネが獄中からイエスのもとに使者を送り,「おいでになるはずの方は,あなたですか.それとも,私たちは別の方を待つべきでしょうか」と質問したのに対し,イエスはイザヤ35:5,6のメシヤ預言を引用して,それらの預言が成就していると告げるように答えられた(マタイ11:2‐6).このことも,イエスの到来により,神の支配がすでに実現していることを示している.さらにイエスはマタイ11:12において「バプテスマのヨハネの日以来今日まで,天の御国は激しく攻められています.そして,激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」と語っている.このことばは,釈義上異なる意見があるが,バプテスマのヨハネの出現以来すでに神の国は現実のものとなり,あらゆる代価を払ってでもそこに入ろうとする者が,神の国にすでに入っているという意味に解釈するのが最も一般的である.いずれにしろ,神の国がすでに現在のものとなっているという意味であることは明らかである.もう一箇所ルカ17:20,21において,イエスはパリサイ人から神の国はいつ来るのかと尋ねられた時,「神の国は,あなたがたのただ中にあるのです」と答えている.このことばも,イエスの出現により,神の国はすでに現在のものとして実現しているという意味である.<復> (3) 神の国の現在的面と未来的面.イエスの教えの中には上述したように,神の国の現在的面と未来的面が存在する.これをどのように調和させて理解すべきかが問題となる.旧約及びユダヤ教では,神が御自身の支配する神の国を地上に樹立するのは,終末における「主の日」であるとされており,すべてが未来的面から考えられていた.それに対しイエスは,御自身の到来により終末はすでに開始されたのであり,それゆえ神の国はある面においてはすでに現在のものであるが,終末の完成という面から見るなら,未来的な面も存在すると説いたのである.クルマンはこの事実を,イエスの到来により,今の世に時の中心が移されたのだと主張した.これにより,終末の神の国の一部が現在すでに開始されたのであるが,決定的な実現は依然として未来における終末の時を待たなければならないと考えた.これに対しG・ヴォスはクルマンと類似しているが,イエスの復活以後から再臨までの間は,今の世と来るべき世が,二つの異なったレベルで重複しているのだとし,それゆえ神の国には現在的面と未来的面の両面があると考えた.ラッドはヴォスの見解をさらに修正している.彼によれば,神の国の完成に至るまでには三つの段階があり,その第1はキリストの復活で,キリストの復活によって,サタンの敗北は決定的となり,来るべき世における神の支配がこの世に突入して来たと考える.しかし,これは「初穂」(Ⅰコリント15:23)と言われているように神の国の前味であり(ヘブル6:4),第1段階である.第2段階はキリストの再臨である.これによってサタンは縛られて「底知れぬ所」へ投げ込まれ,一切の活動を封じられる.そして地上には千年王国が実現し,「キリストの再臨のときキリストに属している者」(Ⅰコリント15:23)が復活して,キリストとともに支配する(黙示録20:1‐6).この時神の国は地上において実現し,キリストにある者たちはその祝福にあずかる.この段階が,ヴォスの考えた神の国が二つの異なるレベルで重複して存在する時代であると考える.第3の段階は,千年王国後にしばらくの間サタンが解放された後完全に滅ぼされて,キリストが国を父なる神にお渡しになる時である(Ⅰコリント15:24).この時,すべての死者が復活し,最後の審判が行われ,キリストを信じる者は新天新地における神の国に入ることを許され,サタンとその支配下にある者はすべて永遠の滅びに入れられる.このすべての者の復活が第2の復活である(黙示録21:7‐22章).これが終末における神の国の完成の時である.これをラッドに従って図解すれば,図「終末に関する種々の見解」のようになる.<復> (4) 神の国の奥義.来るべき世において実現すべき神の国が,すでに今の世に突入して来ており,サタンの国は侵略され,来るべき世に属すべき罪の赦し,いのち,義などの祝福が,すでに今の世において人間に与えられているというイエスの教えは,旧約聖書やユダヤ教にはなかった思想であり,当時の人々には全く新しい,まさに「神の国の奥義」(マルコ4:11)であった.この奥義は主としてイエスのたとえによって人間に示された.マタイ13章にはこれらのたとえのおもなものが集められている.それによれば,神の国は蒔かれた種のようなもので,聞いた者がそれを信じて受け入れるか否かという,受け入れる側の態度により,実を結ぶか否かが決定されるものであった(マタイ13:3‐23).神の国は,誰の目にも明確な,信ぜざるを得ないように人々に迫るような形でこの世にもたらされたのではなかった.神の国の奥義はイエスによって語られたが,サタンは依然として活動しており,人々の心に神の国の奥義を受け入れないよう,不信仰の毒麦の種を蒔く者として語られている(同13:24‐30).そして御国の福音を信じる者と信じない者は,共にこの世の終りまで存在し,さばきによって滅ぼされる者と天の父の御国に入れられる者とに分けられることが教えられている(同13:36‐43).からし種のたとえ(同13:31,32)では神の国は最初は非常に小さいものであるが,やがて非常に大きなものに拡大することが教えられている.また,パン種のたとえ(同13:33)では,神の国がこの世を変える力を持ったものであり,最初は人々が気付かないようなものであっても,やがてはこの地上に満ちわたる偉大なものとなることが教えられている.神の国は人々が期待したような栄光あるものとして最初から姿を現したのではなかった.イエスの出現とともに神の国は極めて人目につきにくい形で人々の前に姿を現した.それゆえ,これは奥義であり,聞く耳のある者にしか理解できなかった(同13:10‐17).畑に隠された宝と良い真珠のたとえが示しているように,人々はどんなに大きな犠牲を払っても,神の国に入れる者となるべきである.神の国はあらゆるものに勝る価値を持つ(同13:44‐46).地引き網のたとえは,神の国はこの世の終りに厳しいさばきを伴うものであることを強調し,神の国の奥義に耳を傾けずに無視することは重大な結果をもたらすと,人々に警告している(同13:47‐50).<復> (5) 神の国の性格.イエスの教えにおける神の国は救済論的性格を持っていた.それはサタンの支配下にある人間から悪霊を追い出し,サタンの力から救い出して,神の支配の下に入れることであった(マタイ12:28).そして罪の結果である死から救い出し,復活のいのち(ルカ20:34‐36)を与えることであった.それゆえ,神の国に入ることと永遠のいのちを受けることは,同義としてとらえられている(マルコ10:17,23).神の国の実現は,病苦,肉体的障害,貧困からの救いをも意味していた(マタイ11:5,6).また,霊的には罪の結果である神との交わりの断絶の中から救い出されて,神との交わりを再び回復することができることを意味した(参照マタイ5:8).それは神の国で交わりの食卓に着くことを意味し(ルカ13:29),喜びの時であり,イエスが再び弟子たちとともにぶどう酒を飲む祝宴である(マルコ14:25).そこにはユダヤ人だけでなく異邦人も世界の各地から集められ,旧約の聖徒たちと食卓に着く(マタイ8:11,12,ルカ13:29).イエスは当時のユダヤ人からは罪人同様に忌み嫌われていた取税人とも食事をすることによって,彼らにも神の国の福音を伝え,失われた者が救われるように機会を与えられた(ルカ19:9,10).ルカ15:11‐32においては,失われた息子が父親のもとに返って来た時,父は祝宴を開いて息子を歓迎したたとえが記されている.これに対し,神の国の福音を受け入れなかった者の道は滅びであり(マタイ7:13),そのような人は自分のいのちを失う者である(マルコ8:35,36).イエスはまた,神の国に入る道をも示された.神の国に入るのは「心の貧しい者」(マタイ5:3)であり,パリサイ人や律法学者に勝る義を持つ者でなければならない(マタイ5:20).しかし,それは困難な道ではなく,罪を悔い改めて神に全く信頼するなら(マルコ1:15),子供でさえも神の国に入ることができる(マルコ10:14,15).そのために,人は新しく生れることが必要である(ヨハネ3:3).それは聖霊の働きによって人間にもたらされた(ヨハネ3:5).<復> 4.新約のその他の書における神の国.<復> (1) 使徒の働き.使徒1:3によれば,イエスは復活後も弟子たちに神の国のことについて教え続けられたことがわかる.しかし,弟子たちはイエスの教えた真意を解せず,依然として神の国をイスラエルの民族的な枠の中で理解しようとしていた(使徒1:6).使徒の働きの中では神の国についての言及をあまり多く見出すことはできないが,使徒たちの宣教において,神の国はその中心的主題であったことが明らかである.8:12において,サマリヤにおけるピリポは「神の国とイエス・キリストの御名について」宣べ伝えたと言われている.パウロの宣教の中心も神の国に関するものであったことは,19:8,20:25,28:23,31に述べられている.また,14:22において,パウロは神の国の未来的な面を強調し,神の国は多くの苦しみの後に来ると語っている.<復> (2) パウロ書簡.パウロはイエスと同様に,神の国が現在的な面と未来的な面の両面を持っていると考えていた.未来的な面に関する言及としてはⅠコリント6:9,10,15:50,ガラテヤ5:21,エペソ5:5,Ⅰテサロニケ2:12,Ⅱテサロニケ1:5,Ⅱテモテ4:1,18を挙げることができる.これらの聖句の中では特に,不品行等の汚れた生活をしている者は神の国を受け継ぐことはできないと述べ,倫理的,道徳的面を強調している(Ⅰコリント6:9,10,ガラテヤ5:21,エペソ5:5).神の国に入るためにはふさわしい生活があり(Ⅰテサロニケ2:12),苦難と(Ⅱテサロニケ1:5)さばきを通して入れられる(Ⅱテモテ4:1)のである.そのために神は正しい者をすべての悪のわざから救い出して下さる(Ⅱテモテ4:18).<復> 神の国の現在的面としてはコロサイ1:13,ローマ14:17,Ⅰコリント4:20等が挙げられる.神は私たちをサタンの支配下から救い出して,キリストの支配下に入れて下さった(コロサイ1:13).ここでは神の国の救いと祝福の面が示されている.それゆえ,神の国は「義と平和と聖霊による喜び」(ローマ14:17)なのであり,神の力の働くところなのである(Ⅰコリント4:20).パウロはエペソ5:5において「キリストと神との御国」と言って,神の国が父なる神のものであると同時にキリストのものであると語っている.しかし,Ⅰコリント15:24では,キリストが終末の完成の時には国を父なる神にお渡しになると語っている.コロサイ1:13のことばと関連させて考えるなら,神の国は現在はキリストの支配の下に置かれているが,未来の終末の完成の時には父なる神の支配下に置かれると考えてよいであろう.<復> (3) その他の書簡.その他の書簡では,神の国についての言及はあまり多くはない.ヘブル1:8は詩篇45:6の引用であり,それはメシヤの王権について言及しているが,ヘブル人への手紙はこのことばをイエス・キリストに対して適用し,彼の王国が正義をもって支配されるとしている.ヘブル12:28では,「私たちは揺り動かされない御国を受けている」と語られている.「揺り動かされない御国」とは,その前の26,27節から見て,終末のさばきによって汚れたものが取り除かれた後にも残る御国という意味であろう.そうするなら,これは神の国の未来的面を指していると言える.そして,神を信じる者はその御国を受け継ぐという約束をすでに受けているのである.ヤコブの手紙では2:5に一箇所だけ言及があるが,ここでは神が貧しい者を選んで信仰に富む者とされ,御国を相続する者とされたと言われている.これはマタイ5:3,ルカ6:20と同じ思想を示している.これも神の国の未来的面を表す.Ⅱペテロ1:11には「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国」という言及がある.ペテロはここで,キリストを信じる者は,未来において神の国に入る恵みを受けているのだから,現在の苦しみや試練に負けず,神の召しと選びとを確信するように勧めている(参照1:9).ここでは神の国の未来的面と,救いは恵みであるという面が示されている.<復> (4) ヨハネの黙示録.黙示録それ自体が,終末における神の国の究極的完成への過程を示している.神の力とサタンの力との戦いは激しさを極め,教会は苦難と殉教を味わうが,キリストの再臨によって,神の力は完全な勝利を得,サタンは千年間底知れぬ所に閉じ込められ,キリストの支配する神の国が地上に実現する.その後最後の審判が行われ,サタンとその支配下にある者はすべて火と硫黄の池に投げ込まれ,永遠に滅ぼされる.キリストにあって救われた者は来るべき世における新天新地における天のエルサレムにおいて永遠の祝福を受ける.これが終末における神の国の完成である.このように黙示録自体が神の国について語っていると言える.なお,神の国についての直接的言及は1:9,11:15,12:10に見ることができる.1:9ではヨハネは自分を「イエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者」と述べているところから,神の国の現在的祝福を指していると考えられる.11:15は未来における神の国に言及しており,12:10も未来における神とキリストのサタンに対する勝利について言及している.これらのことばはパウロの神の国の理解と共通のものであると言える.<復> 5.神の国と教会.<復> イエスはマタイ16:18,19において,教会について言及し,ペテロに対して「あなたに天の御国のかぎを上げます」と言って,教会と神の国を関連させている.つまり,イエスは神の国の福音を宣べ伝え,罪を悔い改めて信じるように人々に呼びかけた.そして信じた者たちは救いを受け,神の国の民とされた.そして教会はこの神の国の民によって形成されるのである.イエスは神の国の民の中から使徒を選び,彼らに神の国のかぎを与え,教会を支配する権威を認めた(参照マタイ18:17,18).ペンテコステ以後,彼らは聖霊の力によってキリストの証人となり(使徒1:8),神の国とキリストを宣べ伝えた(参照使徒8:12,19:8,20:25,28:23,31).こうして教会は形成された.イエスは聖霊の力によって悪霊を追い出して神の国をもたらしたが,聖霊は働いて人々を新生させ(ヨハネ3:5),弟子たちの上に下って,教会を生み出した.こう見ると,聖霊は神の国と教会を結び付ける重要な働きをしており,聖霊による教会の拡大は神の国の拡大でもある.<復> 6.神の国についての神学的解釈.<復> イエスの教えにおいて神の国は現在的面と未来的面を持っていたので,歴史的過程の中で神学者たちは神の国をそのどちらかの面で理解しようとした.<復> (1) 近代以前.古代における教父たちは,大部分の者が,神の国を未来的・終末的なものとして理解した.このような考え方は『ディダケー』(12使徒の教訓),『バルナバの手紙』,パピアス,殉教者ユスティノス,テルトゥリアーヌスなどに見られる.これに対しオーリゲネースは彼の寓意的解釈に基づいて,神の国を未来における終末的なものと考えるのは字義通りの解釈であり,ユダヤ的であると言って拒否した.アウグスティーヌスは最初は未来的解釈を支持していたが,後に『神の国』を書き,神の国を現在の目に見える教会と同一視した.そして中世はこの考え方が受け入れられ,神の国とは目に見える教会組織と同一であると解釈した.宗教改革者たちはアウグスティーヌスの考え方におおむね従い,神の国を現在の目に見える教会,あるいは神の聖徒たちと同一視し,神は贖われた者の心の中を支配しておられると考えた.<復> (2) 近代以後.19世紀に至るとA・リッチュルは終末的解釈を否定して,神の国とは愛に促された活動によって生み出される人間的組織であると主張した.すなわち,隣人と互いに愛し合うという動機によって生み出された行動により形成される,人類が道徳的に一致した組織であるとする.彼は神の国を愛の動機に基づく倫理的原則に置き換えてしまった.同様な考え方は自由主義神学によって受け入れられた.ハルナックは,神の国とは,神が個人の心を支配することであると言い,イエスの教えを倫理的に解釈し,終末的ことばは霊的真理を包んでいる「から」にすぎないと言って排除した.これに対して20世紀に入るとJ・ヴァイスやA・シュヴァイツァーが「徹底的終末論」に立って,神の国の未来的面を強調した.彼らはイエスをユダヤ的黙示文学的預言者と理解し,イエスは誤って,終末は切迫しており,彼の生存中にも来るべき世が到来し,神の国は実現すると語ったのだと主張した.C・H・ドッドはこのような終末的解釈に反対し,神の国の現在的面を強調して「実現した終末論」を主張した.彼はイエスの終末的ことばは,永遠が時間の中に突入したことの象徴的表現であり,絶対他者である神が歴史の中に介入することを意味するものであると解釈した.R・ブルトマンは基本的には徹底終末論の考え方を受け入れたが,イエスの終末に関する教えは,神が近いところにおられるという実存的真理を表現するための神話的表象であると考えた.これらの見解に対し,イエスの神の国の教えの現在的面と未来的面の両方がイエスの真正なことばであると認め,両者を総合して理解すべきだと主張する者もいる.それらの中にはイェレミーアス,キュンメル,ハンター,シュナッケンブルク,リデルボス(リダボス),ラッド等がいる.→終末論,パラダイス,死後の状態,王.<復>〔参考文献〕G・E・ラッド『神の国の福音』聖書図書刊行会,1967;Ladd, G. E., A Theology of the New Testament, Eerdmans, 1974 ; Ladd, G. E., Crucial Questions about the Kingdom of God, Eerdmans, 1952 ; Buttrick, G. A.(ed.), The Interpreter’s Dictionary of the Bible, Abingdon, 1962.(山口 昇)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社