《この町この教会》秩父教会を訪ねて
戦中 苦難の日も灯され続けた信仰の火を継いで
日本キリスト教団 秩父教会
〒368-0035 埼玉県秩父市上町1-8-10
TEL.0494-22-2431
埼玉県西部に位置する秩父市は、面積の多くを秩父山地に連なる豊かな自然が占め、都心から約2時間という利便性からも「ちかいなか」(近い田舎、近い仲)として関東近郊の人々に親しまれている。古くから物資の集散地として栄え、秩父銘仙をはじめとした織物でも名を馳せた。明治期になると、生糸価格の暴落、新政府の増税等により農民が困窮し、数千人規模の武装蜂起が行われている(秩父事件、1884年)。
明治〜大正期の秩父リバイバル
この地に初めてプロテスタントの宣教が行われたのは、1889(明治22)年、新島襄に派遣された大久保真次郎牧師によってだった。大久保は5年にわたって秩父で伝道し、大勢を信仰へ導いた。
続いて1906(明治39)年以降、東洋宣教会の中田重治牧師、C・E・カウマン宣教師が立て続けに秩父に派遣された。こうして2年後に設立されたのが、現在の秩父教会である。
設立初期の信徒によって熱心に伝道が行われ、教勢はみるみる拡大した。大正期には、信徒数が集会所に入り切らないほど膨れあがり、1926(大正15)年に初代の会堂を献堂している。
忍び寄る戦時の圧力
こうした「リバイバル」に影を落としたのは戦争だった。礼拝には私服の警官が出入りし宮城遥拝を強いられたが、ホーリネス系であった秩父教会への弾圧はそれにとどまらなかった。1940(昭和15)年、信徒であった白井とよさん(現在は故人)に秩父署への出頭命令が下った。とよさんは秩父教会史で、当時の出来事を次のように述懐している。
「その頃…ホーリネスの各教会へ入りこんで取り調べがあると聞いていた。皆心構えをしてはいたもののそれが、…牧師に来るか、信者に来るか、…しかし私の目の前に一矢が向けられたのだ」(日本キリスト教団秩父教会発行『秩父教会のあゆみ 創立八十周年記念によせて』1988年 より)
祈りの果てにルカ12章11、12節に励まされて出向いたとよさんは、警察の追求をローマ13章をはじめ幾つかの聖書箇所を示すことで切り抜けた。
とよさんの娘でまもなく93歳になるキヨ子さんは、「母にしてみれば秩父教会の連帯責任になるわけですから重責を果たしたことになります。当時34歳の母が、突然の質問にすぐみことばを開けたことは、りっぱな真の信仰者だったのだなと感動し、ほこりに思います」と当時を振り返る。
右から温井豊・節子牧師夫妻、戦中の様子を語ってくださった教会員の白井キヨ子さん、森田由紀さん
秘かに守られた信仰と訪れた解放の日
しかしその3年後、ついに秩父教会は当局より解散を命じられる。牧師は職を剥奪され、男性信徒は徴兵や工場への動員などに駆り出された。そのような中で教会の灯を守り続けたのは女性たちで、それぞれが家庭で祈り、時間をつくって定期的に「内緒の集会」を開いた。「キリストの御愛を語り共に祈って恵みにあずかりたい。殺伐とした世の中であり、命令によって消された信仰の灯だからなおさら守っていきたかった」とは、とよさんの回想である。やがて終戦の年の8月、突如、宗教結社禁止令が解除となり、驚きの中ただちに十数人の女性信徒が集まった。「皆で主を賛美し祈れる喜びにわきながら」、感謝と感激の礼拝をささげたという。
1995年に建てられた現在の会堂
現在、同教会は温井豊・節子牧師夫妻によって牧会されている。市の人口が減少傾向の今日、信徒数も、最盛期と比べると決して多くはない。秩父市は観光地としての賑わいはあるが、目玉は寺社と結びついた祭りや巡礼で、「伝道が困難な保守的な土地柄」と豊牧師は話す。
戦中とはまた違った困難にある同教会だが、かつて礼拝再開の知らせが突然訪れたように、信仰の灯を守り続けた先に訪れる恵みを待ちたい。
※冒頭の写真は1941年、太平洋戦争開戦の年の信徒たち。秋の特別伝道集会で
【「百万人の福音」2019年8月号より】
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