90歳現役牧師 敗戦の中決意した献身
日本ナザレン教団 千葉キリスト教会
〒263-0026 千葉市稲毛区穴川2-12-13 TEL.043-251-9166
千葉市稲毛区。赤い三角屋根が印象的な日本ナザレン教団・千葉キリスト教会は、今年、創立50周年を迎える。満90歳となる森稔牧師によって創立され、半世紀の間、千葉県での超教派の伝道にさまざまな影響を与えてきた。
焼け跡に灯った献身の炎
1929年、稔さんは牧師家庭に生まれた。物心がついた頃、日本は戦争に突入し、その後の多感な時期を戦争一色で過ごす。父・渓川さんはメソジストの牧師(戦中は日本基督教団)で、困難な時代の中、牧会を続けた。教会は東京・新宿にあったが、戦火が激しくなるにつれ、一家は渓川さんの郷里である岡山へ疎開し、そこで終戦を迎えた。
敗戦はすべてを一変させた。国家体制、教育、価値観…。ある日を境に、国のすべてが丸ごと変わってしまうという経験は、まだ十代だった稔さんには衝撃だった。「この混乱期に、自分はいったい何をなすべきか―」。神に問いながら、新たに聖書を読み直す日々が続いた。結果、稔さんは神学校で学ぶことを決意。48年に単身上京し、千葉市の聖書農学園神学部に入学した。
卒業後、さらなる学びの機会を求めてアメリカに留学。そこで、後の夫人となる久代さんと出会う。北海道の北一条教会で受洗していた久代さんは、戦後、北星女学園でクリスチャンの米軍人夫妻と出会い、彼らの招きで渡米して大学で学んでいたのだった。
56年、2人は結婚。58年には帰国し、北海道での開拓伝道を経て60年に学園教会(千葉市)に赴任。同時に、日本基督教短大(以前の聖書農学園)でも教鞭をとった。それから数年後のこと。その頃教団では、広大な土地を売却したお金で各地に教会を開拓する計画を進めており、稔さんが千葉教会の開拓を任されることになった。
森稔牧師、久代夫妻
米軍人の涙が建てた礼拝堂
69年秋、現在の地に新会堂「メリッサ=ラムデン記念礼拝堂」が完成。この名称は、米軍人でクリスチャンでもあったラムデン夫妻の献金で建てられたことに由来する。ラムデン夫妻は、養子であった娘メリッサを幼くして亡くし、悲しみの中、メリッサの教育資金を含めた1万ドルを日本ナザレン教団に献金。そのお金が、千葉教会の会堂建築に充てられたのだ。会堂は現在まで2度改修したものの、礼拝堂部分は50年前に建てられた時のまま、空に向かって高々と上がる見事なAフレームを維持している。
千葉教会が誕生してはや50年。その間、同教会は創立当初から市内の超教派の牧師たちと交流をもち、超教派の祈祷会、刑務所伝道、日本福音学校における超教派の信徒養成、千葉テレビでの「ライフライン」放映などに関わってきた。また教会内でもさまざまな活動が行われ、特に稔さんが重視した家庭集会は、うち一つが教会として独立し、その喜びが千葉教会を活性化させた。
千葉市中央区にある千葉公園の大賀ハスは、約2000年前の古蓮と推定される世界最古の花。古代ハスの実の発掘者であり、発芽させた大賀一郎博士の名にちなんで「大賀ハス」と名付けられた
牧会生活はまもなく70年
稔さんと久代さんは、ともにまもなく90歳を迎える。牧会生活は70年近くに上るが、稔さんは「引退を考えたことはありません。父も91歳まで現役でした。会堂2階の牧師館からの階段を上り下りできなくなったら、引退かな」と笑う。久代さんも、長年「教会のお母さん」として、会堂清掃や日曜の教会の食事の支度などに労してきた。「炊事のおばちゃんみたいでしたよ。でも楽しかったですね」と話す。
数十年前と比べると、教会の雰囲気も社会も大きく変わった。だが、献身のきっかけも敗戦という社会の激動だった稔さん。「私たちは、旧約聖書で国の変遷を経験したイスラエルの民のように、移り変わる時代の中でも真摯に聖書に聞くことで、思想的、信仰的に深まっていける」と話す。そのことばは、実に重みがある。
【「百万人の福音」2019年4月号より】