『小説パウロ―キリストから世界を託された男』
十字架、それは勝利のしるしなり。
へりくだり、それは凱旋に至る道なり。
弱さ、それは力の源なり。
かつて迫害したキリストに命をささげた男パウロ。その人物像をドイツ人気放送劇作家が確かな時代考証で聖書から活写した画期的ロングセラー歴史再現小説。(「 二 ダマスコへの途上」より一部抜粋)
ダマスコへの途上
サマリアの町はすっかり遠ざかり、再び石ころだらけの道となった。パウロはロバを蹴って進ませようとしたが、ロバは動こうともせず、石のすきまから顔をのぞかせた草のほうへ首を伸ばそうとした。腹を立てたパウロはロバから降りると、仲間が追いつくのを待つことにした。
足もとには湧き水があり、澄み切った小川の流れが石の合間を縫って流れていた。パウロはその流れを目で追いながら一瞬、考えた。目的地に少しでも早く着けるよう、道から外れて荒野をまっすぐ突っ走ったほうがよいだろうか……。しかし、すぐにそれはやめた。
はるか左前方には、雪で覆われたヘルモン連峰が光り輝いていた。かつて堕落してしまった神の民が協議の末、美しいガリラヤの娘たちと契りを結ぶことを決めたのはこの辺りだったという古い言い伝えがあった。さらに東のほうには、預言者エノクが住んでいたという。
そう思うと、パウロの目には辺りの風景が急に生き生きとしたものに感じられた。ここで人々は笑い、泣いたのだ。希望を抱き、戦い、そして死んで行った。足もとの石ころ一つひとつに、それぞれ物語があった。しかしそれは血に染まった残酷な歴史でもあった。その流血は、今もなお終わりを告げてはいなかった。
「戦いを終わらせてはならない……」パウロは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。「トーラーの権威を取り戻すまでは、決して戦いをやめてはならない。」
パウロには神の律法のために戦う覚悟ができていた。エルサレムでもダマスコでも、世界中どこであったとしても……。
遠く右前方を望むと、ヘルモン山の山際まで高くそびえ立つ杉の樹々や、すそ野に広がる彼方のオアシス地帯の高台の上に、城壁に囲まれたダマスコの町が横たわっているのがうっすらと見えた。ダマスコの周辺は、ヘルモン連山の雪解け水が豊富に流れている大きなバラダ川や、数知れない小川で潤されていた。その辺りの平野には畑や果樹園が豊かに広がっており、緑に覆われたその地は、砂漠の世界に生きる人々にとってパラダイスのように思われていたのだ。その美しく輝く自然を目にした時、眠りから覚めたようにパウロは思わず神への賛歌の一節を口ずさんでいた。
『汝に栄光あれ。
この世界を全きものとして造り、
くすしき御手の業を、麗しきヘルモンの樹々を、
人の子の喜びのために備え給いし主よ……。』
「おい、休憩しないか!」やっと追いついたシモンがパウロに向かって叫んだ。「そうすればロバにも水をやれる」その様子から、彼が仕方なくついて来たのがわかった。
「後にする」パウロはぶっきらぼうに答えた。
「だが連れの者たちは、今朝から何も食べてないんだぞ……」シモンは当惑したように言った。
「いや、休憩は後だ。道はまだ遠い」パウロの決意は固かった。
八歳くらいの少年が、石に腰を下ろして山羊の番をしていた。武装した男たちを見ると、山羊の群れを放ったまま大声を上げながら逃げて行った。
その間に最後の一行も追いついた。パウロは再び見回しもせず、改めてロバの背に勢いよく飛び乗った。旅を続けながら、彼の脳裏にはある光景が浮かんでいた。
それはほんの数日前、イエスの信者たちを率いる者の家に行った時のことだった。最初、パリサイ人として、パウロはその家に入ろうとはしなかった。入れば自分の身を汚す。しかし異端の教えを一掃し、神の教えを聖く保たねばならない……。ついに意を決して足を踏み入れた。
集まっていたのは十人ほどの人々だった。祝いの食卓は美しく飾られ、並べられた食事にはまだ手がつけられていなかった。そのうちの一人、おそらく最年長と思われる老人が、いくつか聖書の巻物を手にして読み上げていた。初めのうち、人々はパウロたちの足音にも全く気づいていなかったので、扉のところでじっと様子をうかがうことにした。誰ひとり逃がしてはならなかった。外はもうすでに暗くなっていた。部屋の壁の窪みには明かりが一つゆらゆらと揺らめき、老人の顔に鈍い光を投げかけていた。パウロには、書物を読み上げるその手が震えているのが見えた。
『まことに彼は我らの病いを負い、
我らの痛みをその身に担えり。
然るにわれら思えらく
彼は責められ、神に打たれ、苦しめらるるなりと……』
老人は一瞬、声を詰まらせたが、再び語り出した。
『彼は我らの咎のため傷つけられ、
我らの不義のため砕かれ、
みずから懲らしめを受けて我らに安きをあたう。
その打たれし傷によりて我らは癒やされたり……』
パウロはその聖書の箇所を知っていた。それは預言者イザヤの言葉だった。彼は仲間の者たちに待つよう合図した。もちろん自分自身、すぐにでも殴り込みたいところだったが、ぐっとこらえた。それから老人は巻物を横に置くと、イエスについて語り始めた。それこそパウロが待ち構えていた言葉だった。即座に彼が命令を下すと、男たちが一気に家の中になだれ込んだ。
瞬く間に美しく飾られていた食卓はひっくり返され、床は流れ出たぶどう酒が打ち叩かれた者たちの血と混じり、深紅の水たまりとなった。
パウロは、まず老人を逮捕することにした。何の造作もないことだった。老人は少しも抵抗しなかったのだ。パウロはいきり立って鎖につなぎ、足蹴りにして外へ追い出した。つまずいて顔から勢いよく倒れ込んだ老人は、男たちが連行するまでそのまま横たわっていた。
捕らえるべき者たちのリストをパウロは渡されていた。その多くを、ここでもう見つけ出すことができたのだ。
(手を焼かせない奴らだ……)彼はそう思った。
ベッカー通りでも同じようにうまくことが運んだ。仲間の者とそこへ向かうと、人々はパウロたちを待っていたかのようだった。
「出て来い!」パウロが怒鳴ると、信者たちがぞろぞろと出て来たのだ。ただ一人、中に残っていた老女だけは髪の毛をつかんで引きずり出さなくてはならなかったが、後にその老女は体が不自由だったことにパウロは気づいた。
「おまえらはイエスの異端の仲間か」パウロはそう尋ねた。しかし人々がまだ何も答えないうちに彼の剣は低くうなり、打ちかかったかと思うともう、一人の少女に当たっていた。少女の顔に一本の細長い血の筋が流れ落ちた。
それから陶器師の居住区でのことだった。そこへ行くよう勧める者があったのだ。パウロは酔いしれているかのように、無意識のうちに怒鳴り散らし、誰かが自分の剣に倒れれば、即座に新たないけにえを探していた……。
その時、ヨナタンがロバをぴったりと寄せて来たため、物思いにふけっていたパウロは、はっと我に返った。
「この異端の信者らは、どれほど増えているだろうか」ヨナタンが尋ねた。
「様子を見ないとわからないが……」パウロは答えた。「なぜそんなことを聞く?」
「離反者らが町の半数に及んだ場合、特別措置が取られる可能性がある。それによれば、住民全員が剣によって滅ぼされ、町は焼かれて灰にされるのだ。そんな町は二度と再建されてはならない……」ヨナタンはいまいましそうに言った。
「確かにそう書かれているのは知っている。だがローマ人たちは何と言うだろう……。そんな行為を全焼のいけにえや神への礼拝として、奴らが認めると思うか」パウロはそう答えた。
これまで彼は、多くの町々でこの異端派を徹底的に迫害し続けてきた。しかしその信者たちは、そのたびに逃亡しては、その教えをさらに世界のすみずみにまで運んで行った。そのことを思うと、パウロは絶望的な気分に襲われるのだった。
突き刺すように照りつける太陽の熱さも、パウロには感じられなかった。胸のうちには、自らをさらに苦しめてやまない憎悪と激情の炎が燃えさかっていた。仲間たちをさらに急がせながら、ふとこんな言葉がよぎった。『王に関わることは、急いで執り行うべし。』これはかつて、王ダビデが祭司アヒメレクに語った言葉であった。
かすかな風が起こり、灰色がかった黄色い土ぼこりが神学生の小さな一団を包んだ。その塵は口の中にまで入って来て、目にもひどく染みた。パウロは唇をぎゅっと閉じると、外套をしっかり引き寄せた。風に巻き上げられた砂は、見る見るうちに大きな山のように空を覆い尽くし、とうとう太陽の光までさえぎった。ロバが異様な光景に騒ぎ出し、後ろ足で立ち上がっては何とか綱を引きちぎろうとした。男たちはありったけの力で抑えていた。
「これはひどすぎる! 一寸先も見えない!」男たちが叫んだ。
「嵐が過ぎるまで待とう」シモンが呼びかけたが、パウロは叫び返した。
「いや、進むんだ!」
だが、ロバは先へ進むのを嫌がった。そこでパウロはロバの背から飛び降りると、前に出て力ずくで引っ張った。
その時だった。突然、強い光が天を裂くようにきらめいたかと思うと、大きな雷鳴が辺り一帯に響き渡り、大地が揺れ動いた。言い知れない恐怖が男たちとロバを襲った。すべてを吸い込まんばかりに凄まじく渦巻く砂嵐に、かろうじて立ち向かおうとしていたパウロは、まるで目に見えない手で突き飛ばされたかのように激しく地面に叩きつけられていた。刺すような痛みが彼を襲った。その瞬間、パウロは聞き慣れた母国語で自分の名を呼ぶ声を耳にした。
「サウロ……、サウロ……。なぜわたしを迫害するのか……。」
驚いて辺りを見回すと、輝く御姿があった。
「主よ。あなたはどなたでしょうか……」そう尋ねたパウロは、両手で顔を覆ったまま震えていた。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである……」声はそう答えた。その響きは遠い海の轟きのようでもあった。
「私はどうすればよいのでしょう……」やっとのことでパウロは声を発した。
「起きて町に入れ。そこでなすべきことが告げられるであろう。」
やがて光は消えた。パウロは身動きもせず地面に横たわっていた。真っ暗な闇が彼を包んでいた。やっとの思いで起き上がったが、どんなに目を凝らしても、その闇を突き破ることはできなかった。残されていたのは、夜のような深い闇であった。
すると、パウロの耳にシモンの心配そうな声が届いた。「おい、大丈夫か……。」
しかしパウロは一言も口を開かなかった。
「どうした、見えないのか? 俺はここだぞ!」ヨハナンも動揺を隠し切れず、近寄って来てパウロの腕をつかんだ。「おい、何とか言ってくれ!」
それから彼は仲間のほうを向くと、こう言った。「こいつは雷に打たれて目をやられたんだ。」
「雷ではない!」パウロが叫んだ。「……あの人だ。」
全員がぞっとしてその場で凍りついた。
「エルサレムに引き返したほうがよいだろうか……」シモンがか細い声で聞いた。
「向こうに村がある。そこで誰か助けてくれるかもしれない」ヨハナンが提案した。
ところがパウロは言った。「ダマスコに連れて行ってくれ。」
「だが、こんな状態でダマスコに行ってどうするつもりだ?」ヨハナンが当惑したように聞き返した。
「俺をダマスコに連れて行ってくれ!」パウロははっきりと答えた。
旅の一行は非常にゆっくりとしか進めなかった。誰も口をきこうとはしなかった。それぞれが物思いにふけりながら、これまでの出来事の意味を知ろうとしていた。時が経つのが何倍も遅く感じられた。ついに、ダマスコの町が手の届きそうなところに姿を現した。
「町の門が見えてきたぞ。もうそんなに遠くはない。あと少しで着くからな」ずっと黙ったままシモンの腕につかまりながら、石ころだらけの道をおぼつかない足取りで探る友を安心させようと、ヨハナンが声をかけた。
パウロには、まるで厚い暗雲に包まれたまま歩いているように思われた。心のうちではすべてが混乱していた。何をどう考えたらよいか全くわからなかった。幾度となくこの暗闇を突き破ろうと試みたが、かなわなかった。
引き返すべきか……。だがパウロにはわかっていた。もはや後戻りはできないと。
遠くから響いて来るような友の声を、パウロは上の空で聴いていた。……
ヒルデガルト堀江 著、山形由美 訳
かつて迫害したキリストに命をささげた男パウロ。その人物像をドイツ人気放送劇作家が確かな時代考証で聖書から活写した画期的ロングセラー歴史再現小説。