《「麒麟がくる」》宣教師が見た明智光秀とガラシャ

証し・メッセージ

《「麒麟がくる」》宣教師が見た明智光秀とガラシャ

 明智光秀が主人公の今年の大河ドラマ「麒麟がくる」を毎週楽しみにしていた人も多いことでしょう。新型コロナウイルス感染拡大の影響で放送休止となっていましたが、ついに8月30日(日)に再開され、赤ちゃん時代のガラシャまで登場しました。ぜひ「麒麟がくる」と本稿を併せてお楽しみください。今後の展開がますます楽しみになることでしょう(本稿は「百万人の福音」2020年1月号に掲載されました)。

宣教師(フロイス)が書き残した明智光秀とガラシャ

守部喜雅(もりべ・よしまさ:1940年、中国上海市生まれ。慶応義塾大学卒業。1977年から97年まで、クリスチャン新聞・編集部長、99年から2004年まで月刊『百万人の福音』編集長。現在はクリスチャン新聞・編集顧問。ジャーナリストとして、四半世紀にわたり、中国大陸のキリスト教事情を取材。著書に『聖書を読んだサムライたち』『西郷隆盛と聖書ー「敬天愛人」の真実』『天を想う生涯—キリシタン大名 黒田官兵衛と高山右近』他多数。

欧州で最も有名だった日本人女性

 2020年の大河ドラマの主人公が明智光秀になる、と聞いた時、すぐに思い浮かんだのが光秀の娘の玉のことでした。玉は15歳で細川忠興に嫁ぎ、後にキリシタンとなり、カトリックの洗礼名であるガラシャという名で呼ばれ、特にヨーロッパでは、おそらく最も著名な日本人女性となっていました。
 明智光秀とガラシャについて調べる中で、いちばん驚かされたのは、17世紀のヨーロッパで、日本という異教の地で信仰を貫いたガラシャの生きざまはオペラにまでなって人々に感動を与えていたという事実です。

 1698年、ウィーンの宮廷内のホールで、バロックオペラ「気丈な貴婦人グラティア」が上演されました。そのオペラの正式な題名は「丹後国王の妃であった気丈な貴婦人グラティア、キリストのために苦しみによってその名を高めた」。
 これは、今から320年前のことです。日本では、キリシタン禁教令が敷かれて80年以上がたった将軍・徳川綱吉が支配する江戸時代(元禄11年)に当たります。1793年のフランス革命で断頭台の露と消えたあの王妃マリー・アントワネットも、子ども時代に観たこのオペラの感想を「ガラシャの凛とした生きざまにたいへん感動した」といった内容のことを手紙の中で書いているということです。

よみがえったフロイスの「日本史」

 明智光秀や細川ガラシャが生きた時代は戦国時代と呼ばれています。年代的には、16世紀後半から17世紀前半にかけてのことです。それは、1549年にフランシスコ・ザビエルが宣教師として来日、キリスト教を広めた時を起点とする80年間で、80人ものキリシタン大名が生まれ、人口1500万人の時代に50万人を超えるキリシタンが起こった、まさにキリシタンの世紀と呼べるような時代でもありました。
 ですから、当時、日本で活動していたイエズス会の宣教師などによって、日本のキリスト教宣教報告は、ヨーロッパにも伝わり、ガラシャのこともその宣教報告書に書かれていました。

 しかし戦後になって、戦国時代の日本の事情を最も克明に記したポルトガル語の資料が日本語に翻訳されたのです。それが、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが16世紀末に日本で15年かけてまとめた『日本史』です。フロイスは1564年に来日、34年にわたって日本に滞在し、現存するポルトガル語の写本で2500ページに及ぶ原稿をまとめました。しかしあまりに量が膨大なためローマのイエズス会本部には送られず、その報告書はマカオの教会に保管されましたが、焼失し、写本が各地に散逸して長い時が経過しました。
 その眠っていた写本を発見し、散逸していたものをコツコツと集め、ついには、1950年代に10年もの歳月をかけて邦訳したのが、松田毅一、川崎桃太両氏でした。現在、私たちは、『完訳フロイス日本史』全12巻(中公文庫)を身近に手にすることができます。

キリスト教の人間観で記録

 このフロイスの『日本史』が戦国時代の日本の情報源としてどれほどすごいかというと、たとえば、日本歴史の最大の謎と言われる「本能寺の変」について、日本側の一級資料として知られる『信長公記』では、約5000字で本能寺の変が記録されていますが、フロイスの『日本史』では、織田信長や明智光秀の実に細かい心理描写を含め約2万字をもその解説に費やしているのです。
たとえば、こんな記述があります。

 「彼は、誰にも増して、絶えず、信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、彼を喜ばせることは、万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、いささかも、これに逆らうことがないように心掛け、彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自らはそうでないと装う必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」(『完訳フロイス日本史』③)

 ここで「彼は」というのは光秀のことです。ここでは、いかに光秀が信長に気に入られようとしているか、その心理描写が複雑です。そして、光秀が流す涙も、本心からではなく信長に取り入るための演技であることも見抜いています。
 「本能寺の変」とは、信長の家臣である光秀が、謀反を起こし、京都の本能寺に滞在していた信長を殺害するという事件ですが、その動機は今も謎とされています。しかし、フロイスは、この文章で、表面では信長に忠誠を誓っていながら、その本心では、光秀は信長への不信感を募らせていたことを暗示しています。

恵林寺を焼こうとするのを諫めた明智光秀を打ち据える織田信長の錦絵(新撰太閤記)(Wikimedia Commons)

 これはほんの一例ですが、日本側の資料が信長の英雄譚を遺しているのに比べ、フロイスの記録は「すべての人は神の前に罪人である」というキリスト教の人間観に立ち、信長も光秀も、その光と影を鋭く描いているのです。「本能寺の変」の項の最後をフロイスは以下のようなことばで締めくくっています。

 「現世のみならず、天においても、自らを支配する者はいないと考えていた信長も、ついには以上のように、無惨で哀れな末路を遂げたのであるが、彼がきわめて稀にみる優秀な人物であり、非凡の著名な司令官として、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であったことは否定し得ない。そして、傲慢さと過信において彼に劣らぬ者になることを欲した明智も、自らの素質を忘れたために、不遇で悲しむべき運命をたどることになった。(中略)
 日本においては、人の世のはかなさと、その流れの速さを思わすものはあまりにも多く、人々はそれらに対して、不思議な驚嘆と恐怖を覚えるほどであるが、移ろい転ぶもろもろの営みに浸るほどに、思いを変えて行き、死に関するこれらあらゆる思考を、時を経ずにすべて忘れ去ってしまうのである」(『完訳フロイス日本史』③)

細川ガラシャの回心

 明智玉が嫁いだ先が細川忠興でした。ですから細川ガラシャの消息については、細川家に伝わる歴史資料が最も詳しいはずです。けれどキリシタン禁制が敷かれた1614年以後、キリシタン関係の事柄は、ほとんど日本の資料からは抹殺されてしまったのです。ですから細川玉がキリシタンになったことは記録にありますが、その信仰の次第については沈黙しています。それに比べフロイスの『日本史』は、細川ガラシャの回心の次第に約1万字を費やしています。

本能寺焼討之図(Wikimedia Commons)

 謀反人の娘――「本能寺の変」で父・光秀が信長に謀叛を起こし主君を殺害したということは、細川玉の運命を大きく変えます。細川忠興にとっても、謀反人の娘を妻としているという負い目がありました。当時の武士の習わしでは、玉は命を絶たなければなりません。しかし忠興は、玉を味土野(みどの・丹後国)という辺境の地に幽閉します。
 この後2年にわたる幽閉生活こそ、玉が本当の救いを求め飢え渇きを覚える時となったのです。もともと禅宗に熱心だった玉、しかし空虚な幽閉生活の中で、日本古来の宗教は玉に解決を与えてはくれませんでした。

 「後に、彼女自らが言っていたように、当時、彼女が会得したことは、彼女をして、精神をまったく落ち着かせたり良心の呵責を消去せしめるほど強くも厳しくもなかった。それどころか、彼女に生じた躊躇や疑問は後を断たなかったので、彼女の霊魂は深い疑惑と暗闇に陥っていた。彼女はそれらの疑問に答えるためには仏僧たちの教えが十分でないことを感じていたものの、より豊かな光と、より堅固な教えを示してくれる者とておらず、仏僧たちの救済に頼らざるをえなかったのである」(『完訳フロイス日本史』③)

 この幽閉生活の中、かつて忠興の友人でキリシタン大名の高山右近から聞いたデウスの教えについて、それをもっと知りたいという魂の飢え渇きを玉は覚えるのです。また、味土野に同行し世話をしていた侍女の清原いとの存在も玉にとって大きな慰めでした。清原いとは、後に玉より早くキリスト教の洗礼を受け、教会に行くことのできない玉に洗礼を授ける役目を果たした女性です。

 世は豊臣秀吉が栄華を究めていました。忠興は秀吉に仕えます。その秀吉の赦しを得て、味土野から大坂の細川邸に戻った玉ですが、そこにも自由はありません。昼夜を問わず監視の目が光り、玉は、屋敷の中に監禁状態の日々が続きます。しかし、忠興の九州への出陣の折、意を決して屋敷からの脱出を決行した玉は、夢にまで見た大坂の教会にたどり着きます。しかし、教会に滞在できる時間は多くはありません。

 「彼女はキリストの福音の教えと、自らがその時まで奉じて来た禅宗との間にある相違を見届けると、ふたたび、そこに来ることができぬ身であることを承知していたから、聖なる洗礼を授けて欲しいと大いに願い、幾たびか両手を合わせてその願いを繰り返した。そして、まだ、理解し聞かねばならない説教の残りの部分は、その時にすでに開始されていた説教の台本である教理本を、できれば拝借し、それによって学ぶことにしたいと申し出た」(『完訳フロイス日本史』③)

 この後フロイスは、清原いとの手によって屋敷内の礼拝をしていた部屋で、ついに玉が洗礼を受ける場面を感動的に記録しています。また、イエズス会の神父に宛てたガラシャの手紙も『日本史』には収録されています。
 あの血で血を洗う殺戮の時代に、細川玉という日本女性が、ついに神の恵みによって救いを得るさまが、『日本史』には克明に記録されているのです。
 “ガラシャ”という洗礼名は、“神の恩寵”という意味です。
〈「百万人の福音」2020年1月号〉

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