《「麒麟がくる」》キリシタン全盛の安土桃山時代

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《「麒麟がくる」》キリシタン全盛の安土桃山時代

 各地の戦国大名が虎視眈々と天下を狙い、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康が台頭していく戦国〜安土桃山時代は、日本史の中でも特に人気の期間です。一方で、権力者の庇護を受け、各地に信仰をもつ武将が続々と誕生するなど、キリシタン全盛の時代でもありました。なぜキリスト教信仰は大名、そして民衆に広がったのでしょうか。また、それらはなぜ根づかず、迫害と弾圧の対象となったのでしょうか。(本稿は「百万人の福音」2020年1月号に掲載されました)

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日本史に花開いた信仰の時代

若井和生(わかい・かずお:1968年、山形県生まれ。静岡県立大学国際関係学部卒業後、国立フィリピン大学留学。2001年、聖書神学舎入会。2005年より牧師を務める。現在は単立・飯能キリスト聖園(せいえん)教会牧師。

明智光秀が主人公の大河ドラマ

 2020年のNHK大河ドラマの主人公が明智光秀であると聞いた時、「ついに光秀にも順番が回ってきたのか」と思いました。大河ドラマでは、今まで随分多くの戦国武将が取り上げられてきたように思います。信長、秀吉、家康は言うまでもなく、その他にも武田信玄、伊達政宗、前田利家、直江兼次、黒田官兵衛、真田幸村(信繁)…。そしていよいよ明智光秀の人生にも、スポットライトが当てられるのだと思いました。

 ドラマの最大の注目は何と言っても、明智光秀がなぜ主君であった織田信長を裏切って本能寺の変を引き起こしたのかにあります。ただ、牧師である私は光秀の三女・玉子、後の細川ガラシャの信仰者としての歩みがどのように描かれていくのかに、とても興味があります。

暗黒の戦国時代

 戦国武将たちが天下統一を目指して互いに競い合う姿は、とてもスリリングで見る私たちの心をワクワクさせます。ドラマとして見る分にはそうなのですが、当時の時代を生きた人たちが、どんな思いで一日一日を歩んでいたかを考えると、やはり厳しい時代だったのではないかと思います。いつでも死と隣り合わせの状況でした。激しい権力の争奪戦のさなかに裏切りや陰謀が横行していました。お上に対する忠誠を誓いながらも、自分は誰に仕えたらいいのか、どこまで仕えたらいいのかと悩み苦しんだ侍たちがたくさんいたのではないかと想像します。

 戦国時代と聞けば私たちはまず侍たちのことを考えますが、当時の一般庶民の生活はどのようなものだったのでしょうか。戦乱の世にあって人々は貧困にあえぎ、天災、飢餓、一揆などが頻発したと言われます。長く続く戦乱の世は各地に寡婦、孤老、孤児、捨て子を群生させ、悲劇を生み出していきました。当時の日本社会を記録し続けたイエズス会の修道士たちは、各地で捨て子、堕胎、子殺しが多いことを書き留めています。当時の多くの日本人たちは世の中に絶望していたのです。

日本に衝撃をもたらしたキリスト教

 この日本社会にキリスト教がもたらされた時、人々は渇いた砂漠が水を吸収するように、キリストの教えを受け入れていきました。そしてキリスト教は驚くべき速さで日本各地に浸透していきました。日本人のキリスト教入信の動機としては、いろいろな要因が指摘されていますが、何よりも人々が絶望していたことが大きかったと考えられます。

 後に迫害の時代がやってきた時、多くのキリシタンたちが殉教し、結果的に自らの死を受け止めていきました。この世で報われることは少なくても、来世に彼らは希望をもっていました。キリストにある永遠のいのちと復活に対する信仰に、彼らは生かされていたのです。

来世だけでなく現世も

 私は今まで長い間、そんなキリシタンたちの姿に励まされつつも、きっと彼らはこの世では世捨て人のような生き方をしていたのだろうと思っていました。彼らが、厳しいこの世から、楽しい天国へと逃避した人たちだったかのようなイメージさえ抱いていたのです。

 ところが当時の歴史を丁寧に調べていくにつれ、決してそうではなかったこと、キリシタンたちがこの地上でもしっかりと信仰者として歩んでいたことが少しずつ見えてきました。

キリシタン大名として著名な高山右近(落合芳幾「太平記英勇伝九十二:高山右近友祥」、Wikimedia Commons)

聖書の教理の獲得

 まず感心させられるのはイエズス会の修道士たちが、聖書の福音の核心部分を日本の庶民たちに何としても伝えようと努力していることです。そのために彼らは自ら日本語を学び、聖書の内容を日本語でどのように伝えたらよいのかと熱心に研究しました。そして教理書を作成し、ヨーロッパから印刷機まで持ち込んで大量に印刷し、一般信徒たちに配布しているのです。問答形式で記される彼らの教理書『どちりいな・きりしたん』を読むと、その内容に圧倒されるような思いになります。

 「きりしたんの御掟は真実の御教へなれば、きりしたんになる者は、其謂れを聴聞する事肝要也」
 (キリシタンの教えは真実な教えだから、キリシタンになる者はそこで教えられていることをよく聞くことが大事である)

 「まずきりしたんにならるる事は、いかなる人の業とか知れるや。でうすのがらさを以きりしたんになる也」
(キリシタンになるためには、どのような人の行いが必要となるだろうか? デウスの恵みによってキリシタンになるのである)

 「なき所より天地をあらせ玉ふ御作者でうすは、御一体のみにて在ます也」
 (無より天地を造られた造り主なるデウスは、唯一なるお方である)

 「きりしととは、いかなる御主にてましますぞ。きりしととは実のでうす、実の人にて御座ます也」
 (キリストとはどのような主だろうか? キリストとは真のデウスであり、同時に真の人であられる)

 聖書について、神について、キリストについて実によく教えているではないですか。以下のこんな文章も見つけました。

 「まずきりしたんにならるる事は、いかなる人の業とか知れるや。でうすのがらさを以きりしたんになる也」
(キリシタンになるためには、どのような人の行いが必要となるだろうか? デウスの恵みによってキリシタンになるのである)

 「人は行いや人間の努力によってではなくて、神の恵みによって救われる」との教えは、宗教改革を経験したプロテスタントの教会が大切にしてきたものではなかったでしょうか。それがカトリックのイエズス会によって、当時の日本にて教えられていたとは何という不思議、何という驚きでしょう。

 同時に、これくらい聖書の大事な教理を日本人に伝えようとしていたイエズス会の修道士たちの努力に頭が下がります。牧師である私は今まで、これくらい徹底して聖書の教理を信徒たちに教えてきただろうかと考えると、恥ずかしい思いになります。当時のキリシタンたちにとって聖書の全体を読むことは不可能でしたが、このような教理書を通して、彼らは聖書のメッセージの核心部分をしっかりと学んでいたのです。

学びだけでなく実践も

 さらに彼らは、聖書の教えを頭で理解するだけでなく、教えられたことの実践も大切にしました。生活の中で互いに支え合うコンフラリア(信心会)と呼ばれる組織が、各地に自発的につくられていったとのこと。互助共済によって共同体意識が強められました。中世のヨーロッパで生まれた名著『イミタチオ・クリスティ(キリストにならいて)』が、日本のキリシタンたちにも愛読されていたそうで、彼らはまさにキリストにならうこと、キリストのように生きることを大切にしていたのです。

 当時のキリシタンたちは、なんとしっかりと信仰者としてこの地上で歩んでいたことでしょうか。天に対しての希望と憧れを心の内に抱きつつ、この地上での歩みを彼らが軽んじることはありませんでした。

小西行長はキリシタンであることを理由に切腹を拒み、打ち首となった(落合芳幾 画、Wikimedia Commons)

迫害と弾圧の理由

 キリシタン宣教は当時の日本における最大の思想運動、社会運動、文化運動でした。それまでの日本にはなかった神の祝福が日本にもたらされたのです。この良き知らせにどれだけ多くの日本人が救われたでしょうか。どれだけ大きな喜びがこの日本にもたらされたでしょうか。そしてどれだけの日本人が新しいいのちを与えられ、生き生きと溌剌と歩んでいかれたでしょうか。

 しかし日本にもたらされた新しい思想と信仰は、当時の日本社会の専制支配者や儒教・仏教などの宗教者の目には、国家を揺るがす危険思想として映りました。そして天下が統一され、日本の権力体制が確立されるに及び、キリスト教は弾圧されることになります。徳川幕府の禁教政策が開始された後、日本は鎖国によって国を世界から閉ざし、キリシタンたちは徹底的に弾圧され、少なくとも日本社会の表面からは一掃されることになりました。

 そのような禁教の日々が約250年も続きました。幕府の厳しい宗教弾圧は日本人の精神に大きな影響を与え、特に日本人の心にキリスト教邪教観が根深く刷り込まれていくことになります。キリスト教に対するそんな拒否感、抵抗感、嫌悪感のようなものが、今でも日本社会の中に根深く残っているのではないでしょうか。

キリシタンたちが残してくれたもの

 今日の時代に生かされる私たちキリスト者にとって、それは大きな闘いです。同時にそこには希望もあるのでないかと私は思っています。400年も前にキリシタンたちはこの世にあって、この世の国とはまったく違う、祝福の世界があることを確かに示してくれました。彼らが天を仰ぎつつ、この地上で顕してくれた神の国の原型のようなものが、もうすでにこの国には刻印されているのではないでしょうか。
 私たちはこれから、それらをしっかりと掘り出し、見つけ出して、引き継いでいくこと、自分たちのものにしていくことを大切にしていけたらと願っています。

〈「百万人の福音」2020年1月号〉

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